D—死街譚 〜吸血鬼ハンター4 菊地秀行 [#改ページ] 目次 第一章 夜の旅 第二章 何処(いずこ)へ 第三章 町民たち 第四章 光る蛇の谷間 第五章 ローリイ 第六章 死人の国 あとがき [#改ページ] 第一章 夜の旅    1  辺境において、夜の旅は最も危険な行為と見なされる。  かつて、伝説の妖獣・怪魔を世界に放った貴族たちは、自らの世界を「夜」と規定し、暗黒を妖美の色で飾りたてるがごとく、忌わしきものたちの|跳梁期《ちょうりょうき》をもまた闇の国においた。  それは、昼の光こそ活動のとき[#「とき」に傍点]と定め、夜の闇を安らぎとした「世界の論理」に牙を剥くものであった。  夜の闇こそ真理、世界を|統《す》べるもの。  白き光の夏よ、さらば。  それ故にこそ、夜は威嚇に充ちた。  風には夢魔の呻きがこもり、闇は次元獣の恫喝をささやく。木立の陰に光る|碧《みどり》色の眼、眼、眼。 「都」の荒廃区を行く武装兵士ですら、崩れ落ちた居住ブロックを抜けたときは、安堵のあまり路上にへたり込む。  まして、辺境では——  宿場から宿場への間に、粗末な「|中継駅《ウエイ・ステーション》」を設けた|主要街道《メイン・ロード》はさておき、名も知れぬ村と村とをつなぐ|補助街道《サポート・ロード》の途中で日暮れを迎えたものは、身につけた装備と両の手足のみを武器とし、迫り来るものを迎え討たねばならない。  それ故にこそ、好んで夜の旅をゆくものはふたつに限られた。  貴族と——  ダンピールと。  すなわち、|吸血鬼《バンパイア》ハンターと。  ふり落ちる月光を|繚乱《りょうらん》と撒き散らしながら、今しも、荒れ果てた丘陵を登り切ろうとする人馬の影があった。  馬は平凡なサイボーグ馬だが、手綱をとる騎手の相貌は、月と闇との妖麗な結晶を思わせ、|玲瓏《れいろう》と澄んでいる。  だが、吹きすぎる風が、その身体に触れるたび、戸惑うように震え、渦巻き、新たな雰囲気を乗せて流れ去るのは何故だろう。  鬼気を。  鍔広の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》、闇よりも濃い漆黒のケープとスカーフ、背を彩る優雅な長剣の鞘は、いずれもほつれ、色褪せ、この旅人の送ってきた苛烈な日々を想起させるに足りた。  風の運ぶ砂塵を避けてか、若い旅人は眼を閉じていた。  天上の細工師が精緻の限りを尽くしたような秀麗な横顔は、疲れ果てているようにも、孤独な眠りにひたっているふうにも見える。  眠り——それもまた、安らぐ|精神《こころ》とは遠い修羅の休息であろう。  風の唸りに何かが混じった。  旅人の眼が開いた。  凄絶な光が流れ、すっと消えた。  馬の歩みに停滞はなかった。  丘の頂に着くまで、十数歩でこと足りた。  もはや、はっきりと聞こえた。  銃声と野獣の叫びが。  旅人は眼下の平原を見下ろした。  襲われているのは、中型の移動家屋のようであった。  周囲に数頭の|小竜《リトル・ドラゴン》が蠢いている。貴族の放った|夜の子供《チルドレン・オブ・ザ・ナイト》たちだ。本来ならもっと南の湿地帯に棲息するが、|気候調整装置《ウエザー・コントローラー》のトラブルか、時折、北上する群れが見受けられる。危険な生物相の移動は、辺境にとって深刻な事態だろう。  家屋は半ば破壊されていた。  運転席の窓と居住区の天井に穴が|穿《うが》たれ、小竜が首を突っ込んでいる。  家屋の手前に散らばり、煙を上げている木片と、寝袋、それにもはや原形を留めぬまで食い荒らされた二個の人体らしきものだけで、事態は明らかだった。  やむを得ない事情——多分、動力関係だろう——で、車内に留まるべき家族は、野営をする羽目に陥ったのである。小さな焚火ひとつで、迫り来る夜のものども[#「ものども」に傍点]を警戒しようとした無知さをとがめても始まるまい。  寝袋の数は三つ。死体と合わせてひとつ足りない。  再び銃声が轟き、居住区の窓からオレンジ色の火線が闇を切り裂くと、小竜の一匹が眉間を砕かれてのけぞった。  夜営するような無知なものにしては、水際立った腕前と知識であった。南に棲む小竜の急所など、北の住人に伝播しているはずがない。  答えはすぐに出た。  車体のかたわらに、大型の|磁気《マグネット》バイクが横づけされている。  救助の手が伸びたのだ。  旅人が手綱を引いた。  全身にわだかまる月光を|繽紛《ひんぷん》と跳ねとばして、サイボーグ馬は一気に下降に移った。  急勾配を平地のごときスピードで駆け降り、風を巻いて小竜に迫る。  新たな敵の疾走に気づき、後端の一頭が振り向いたとき、人馬は黒風のようにその脇をすぎた。  竜の眉間が鮮血を噴き上げたのは、急停止した馬から旅人がケープを閃かせて降り立ったときである。  巨大な口腔を開き、血まみれの歯列を剥き出す魔物たちへと向かう歩みは、一見緩やかで、その実飛燕の迅速さをもっていた。  黒衣の周囲で金属を打ち合わす音が連続した。  噛み合わせた牙を再び開くことはできず、小竜たちはことごとく眉間を断ち割られ、血風を撒き散らしながら倒れ伏したのである。屋根からとびかかった一頭も例外ではなかった。  断末魔の苦鳴にも疲れたような美貌は小揺るぎもせず、引き裂かれた二体の死者に目もくれず、若者は長剣を背に収めるや、サイボーグ馬の方へ戻った。  つまらぬ真似をしたとでもいうのか、生き残ったものの安否など思慮の外にあるとでもいうのか、死の立ち込める世界に背を向け、手綱を引き絞る。 「おい、ちょっと待て」  あわてたような男の声にようやく立ちどまってふり向いた。  車のドアが開き、皮のベストを着た髯面の男が姿を現した。右手に単発の徹甲銃を握っている。腰のベルトには山刀。銃よりもこちらを構えた方が似合いそうな険悪な面構えであった。 「助けてくれたのはありがてえが、おめえ、さっさと背ぇ向けるこたぁあるまいよ。来な」 「生き残りはひとりだ。子供だから君で何とかなる」  髯面に驚きの色が湧いた。 「なぜ——ははん、寝袋を見たな。こら、ちょっと待て、この野郎。原子炉の加熱器にひびが入って、内側は放射能でいっぱいだ。この一家が外へ出てた原因もそれさ。子供は放射能を浴びてる」 「早く手当てをしてやれ」 「おれの持ってる薬じゃ無理だ。街の医者に見せにゃあならん。おめえ、行く先はどこだ?——ゼメキスとの邂逅地点か?」 「そうだ」 「待て、待て。おれはこの辺の道をよく知ってる」 「おれも知っているさ」  若者は再び背を向けた。  それが止まった。  ふり向いた双眸はあくまで暗く冷たい。  子供[#「子供」に傍点]は男の背後に立っていた。  虹色のリボンでとめた黒髪は、垂らせば腰まで届きそうだった。粗末な綿のシャツとロング・スカートの褪せた灰色も、豊かな胸の膨らみと若さまでを覆ってはいない。  それは十七、八の美しい娘だった。  若者を見つめる眼に、不思議な色が湧いた。家族を失い、自分の生命まで失いかけた凄愴ささえ忘れさせるものを、若者の美貌は具えているのだった。  何か言おうと手を伸ばし、娘は前のめりに倒れた。 「ほれ見ろ、言わんこっちゃねえ——重傷なんだ! 夜明けまで待っちゃいられねえのさ。だから、おめえの助けが要るんだ」  若者は無言で馬首を巡らせた。 「どっちが運ぶ?」 「もちろん、おれさまよ。おめえ、さんざん渋って、いいところだけ楽しもうなんて虫が良すぎるぜ」  男はバイクから皮ベルトをはずして戻り、少女を背に乗せると、器用に自分の身体と結びつけた。 「触るなよ」  男は若者を睨みつけながら、バイクに跨った。  少女もピタリと|背後席《バック・シート》に収まる。  鮮やかな位置感覚だった。 「んじゃ行くぞ、ついてきな」  ハンドルを握り、グリップ・スターターをふかす前に、男はふり向いた。 「自己紹介がまだだったな。おれぁ、ジョン・M・ブラッサリー・プルート八世ってんだ」 「D」 「いい名前だな。だがよ、呼びやすいからって、おれの名を略すなよ。呼ぶときゃフルネームで頼むぜ。いいか、ジョン・M・ブラッサリー・プルート八世だ」  男が念を押したとき、Dが天空を仰いだ。 「どうしたい!?」 「血の匂いを嗅いで、色々と来たぞ」  月輪の内側を黒いものが近づいてくる。肉食鳥の群れであろう。風に混じって狼らしき遠吠えもきこえた。  予想に反し、一行の通り道に立ち塞がる危険は姿を見せなかった。  三時間も走りつづけたろうか。平原の果てに煙っていた山々が、にわかに現実感を帯びて視界を塞ぎはじめると、ジョン・M・ブラッサリー・プルート八世は並んで疾走するDを鋭い眼で見つめた。 「あの山の麓に行きゃ、街が来る[#「街が来る」に傍点]。ところでおめえ、何の用だ?」  と訊いても答えぬDへ、 「畜生、カッコつけやがって。おめえ、黙って突っ立ってりゃ女が寄ってくるのに慣れてんな。そりゃ、確かに腕も立つがよ——いつまでも、それで通ると思うなよ。いつかみんなの太陽になんのは、おれみてえな正直ものだ」  Dは無言で前方を眺めている。 「えい、ケタクソの悪い。おりゃ、最後のひと詰めだ!」 「待て」  鋭い制止に、プルート八世は一瞬青ざめたが、すぐ空元気をふり絞ったか、思いきり、グリップ・スターターを回した。  ウランの急速燃焼による青白い炎がブースターから迸り、バイクは砂を蹴って疾駆した。  すぐに止まった。  エンジンは振動を続け、車輪は砂を蹴っている。  それなのに|眩《まばゆ》い月光の下、五千馬力を絞り出すはずの原子力バイクは一センチと先に進まぬばかりか、徐々に確実に、地中へと沈み込んでいくのだ。 「しまった、|砂蝮《サンド・パイパー》だ!」  それは、土中深くに潜むという巨大な蛇状の存在のことで、誰も見たことのない全長は数十キロに及ぶとされる。  そして、恐るべきことに、生まれてから死ぬまで、自らは一ミリといえども動かぬが故に、高速振動と推測される手段で、地上に数千カ所に及ぶ脆い土砂層を形成し、不運な獲物を捕食するのだった。  絶えず下方へと移動するこの層は、一種の流砂となり、砂と砂とが奇怪な動きを示して、一歩でも足を踏み入れたものを永久に放さない。土砂の顎がいかに強靭かは、五千馬力を誇る原子力エンジンが、ただ空回りするむなしさを見てもわかるだろう。  あれまあれまと騒ぐうちに、バイクは車輪半ばまで砂に沈んだ。 「おい、こら、黙って見てるな、顔面神経痛。おまえに人間の血が通っているなら何とかせい」  プルート八世は口角泡をとばして|喚《わめ》き、それが効いたか、Dは鞍の背後につけた細いロープの輪を掴んで馬から降りた。 「しくじったら、ロープも引き込まれるぞ、心して投げろ」  ぎゃあぎゃあと罵る男の眼が、大きく見開かれた。  美青年はロープを投げなかった。それを手にしたまま、悠然と、流砂の一角へ足を踏み入れたのである。 「——!?」  新たな罵りに挑戦しようと開いたプルート八世の口が、ぽかんと停止したのも道理。なんと、どのような生物も区別なく貪り食らうはずの死の顎の上を、黒衣の若者は妖々と歩きはじめたのである。黒衣は風に舞い、月光を銀砂と変えて跳ね返す。  それは救助に向かうと見せて、手を差しのべる犠牲者の首に黒いロープを巻きつける死神の姿のようであった。  ロープがとんだ。  その端を大あわてで掴みとり、プルート八世はバイクのハンドルに結びつけた。  Dは無言で元の位置へと戻り、ロープの輪を手にしたまま、サイボーグ馬に跨った。 「よっしゃ、いい——」  ぜ、と言う前に、ぐい、とバイクは引かれた。 「待て。こら。おれもエンジンを!?」  言いかけて、グリップに力を加えたのも一瞬で、バイクと二人の乗員はあっという間に生ける砂から脱出し、堅牢な地面の上にタイヤと足を据えていた。 「おめえ……|一体《いってえ》、何|者《もん》だ?……」  プルート八世は呆けた表情を馬上の若者に向けてつぶやいた。 「どんなサイボーグ馬どころか、トラクター使っても、|砂蝮《サンド・パイパー》からは滅多に逃げられやしねえ。それを、こうもあっさりと……二枚目すぎると思ってたが、ただの人間じゃねえな」  ばん、と両手を打って、 「わかったぜ——ダンピールか!?」  Dは動かない。安全な通路でも探しているように、限りなく冷たい双眸は月光と闇の奥を凝視していた。 「だけどよ、安心しな。おれぁこれでも心の広いのがモットーなんだ。一緒にいる奴の色が赤かろうと緑色だろうと、差別などしやしねえ。おれさまに不利なことをしねえ限りはな。もち、ダンピールだってよ」  プルート八世の声にはまぎれもない真摯さが込められていた。突如、誠実さの塊になったかのような男に眼もくれず、Dは低い声で、 「用意はいいな?」  と訊いた。 「あン?」  淡々とした声に何を感じたか、プルート八世の|眼《まなこ》もDの方角へ向けられ、たちまち前後左右へ走った。  三人の立つ大地の一角を残して、点々と、黒い小さな穴が穿たれつつあった。  蟻地獄に砂が呑みこまれていくように、|擂鉢《すりばち》状の穴はみるみる大きさを増し、穴と穴とがつながり、それは、巨大な眼に見えぬ生物の足跡のように、三人を取り囲んだ。    2 「こいつぁ……砂蝮の野郎、どうでもおれたちを生かして|帰《けえ》さない気だな」  プルート八世の声には笑いが強かった。絶望のただ中から明るさが生じるというが、プルート八世の笑いはそれとも無縁の、自信と希望に充ちたものであった。  だが、この危機をどう切り抜けるというのか。  いかなDの超技をもってしても、この途方もない蟻地獄の擂鉢から逃れられるとは、どうしても思えない。まして、彼はひとりではない。道連れは娘を肩に担ぎ、その娘も強度の放射能障害のため、一刻を争う状態にあるのだ。 「おい、どうする?」  プルート八世が興味津々たる表情で訊いたとき、 「眼を閉じて、伏せろ!」  鋭い叱咤が走った。  プルート八世が訳もわからず従った刹那、白光が天地を埋めた。  巨大な擂鉢の底から立ち昇った光の柱の下で、砂粒は沸騰し、泡立ち、瞬時に熱を失い、月輪を映すガラスの平原と化した。  光の柱はなお音もなくそそりたち、光と闇の交錯にわずかに眼を細めたDの面貌は、時に|眩《まばゆ》く、時に昏く翳った。  長い時間のように思われたが、数秒であったろう。  水のように|仄《ほの》白くかがやく窪みを除いて、平原は先刻同様月光の下に音もなく沈んでいた。 「原子弾が砂蝮の穴を吹っ飛ばし、溶かして、固めちまったんだな——一体、誰が」  プルート八世は、再びDの視線を追った。  知識はあっても、感嘆の声が洩れた。  遥かな峰々の中腹の一点に、円形とも長方形とも見える黒い影が貼りついていた。  その辺の岩壁ではない。山の峰なのだ。しかも、緩慢な動作ながら確実に下降してくるその速度は、距離を計算に入れれば優に時速二十キロに達しているはずであった。  大きさは——直径三キロほどの楕円形であった。 「あれのおかげか?」  プルート八世の問いに、Dはかすかにうなずいた。 「まだ、プロメテウス砲を装備した移動街区が残っていたとはな。照準も見事——生命の恩人が時間通りにやってきた」 「やれやれ、町長が恩着せがましい奴でないことを願うばかりだな。——行くぜ、街が来るまで待っちゃいられねえ」  ブースターが吠え、大地を蹴る鉄蹄の響きが平原を横切った。  フル疾走で一〇分も走ると、前方の丘陵の|頂点《いただき》から、黒い巨大な影が雲みたいに湧きあがってきた。  下方には鉄と木を組み合わせた球体やパイプが走り、時折、噴き出す白煙は、それ[#「それ」に傍点]が移動するエネルギーのひとつが、圧搾空気であることを物語っていた。  それにしても、数センチを動くだけで、どれほどの推力を必要とするだろうか。  地響きをたてて斜面へ重なり、ゆっくりと滑り降りてくるものは、確かにひとつの街であった。  そうとは知っていても、いや、いま現物を間近にしても、それは簡単に理解できそうにない凄まじい存在であった。  面積はたっぷり三平方キロはあるだろう。高さ十メートルにも達する巨大な楕円形の|基台《ベース》の上に、木造・プラスチック・鉄製の建築物がひしめき合い、その間を街路が整然と、あるいは気まぐれに走っている。建物の密集した端には小さな公園や墓標の群れ——墓地までが見えた。  無論、街区には住宅の他、病院、治安官事務所、監獄に消防署と、通常の町や村に備わる施設はすべて整い、公園には自然の樹木が風に揺れている。  驚くべきことは、スムーズな移動に不可欠とはいえ、この巨大な施設を支える|基台《ベース》が、地上から一メートルの高みに浮遊していることであった。  単なる圧搾空気の噴射やロケット・エンジンですむ問題ではない。恐らくは基台内の原子炉で生産したエネルギーを、素粒子変換器にかけて反重力タイプに変えているに違いない。それでも、高さ一メートルに留まるのは、原子炉の出力か、変換器容量に秘密があるのだろう。  まさしく、これは動く街であった。  二人の眼前に基台が黒々とそびえ、ごおごおたる機関音が吹きつけてくると、基台の上端に|象嵌《ぞうがん》された鉄扉の周囲の台座から、眩い光が三人に降りかかった。 「何だ、おまえらは?」  スピーカーの諮問に、プルート八世がバイクのマイクを口にあて、 「旅のもんだ。怪我人がいる。医者に診せたいんだ。入れてくれ」  沈黙があった。サーチライトは二人を照らしつづけている。眼に見えぬ銃口の照準も兼ねているのだろう。少しして、 「駄目だ。新参者は迎えられん。街の人口は物資の供給能力を三〇パーセント、オーバーしている。別の町か村を探せ。いちばん近いのは——二十キロ先に、ハヒコの村がある」 「冗談じゃねえ!」  とプルート八世がハンドルをぶっ叩いた。 「二十キロとはどの口から出るんだ!? いいか、おれの背中にいる娘は、全身に放射能を浴びてるんだ。二十キロどころか、もう百メートルだって行けやしねえ。てめえら、貴族じゃなかろうな」 「何と言われてもいかん」  声は冷たく言った。 「これは町長の指示だ。それに、その娘、ナイト家のローリイだな。二カ月前、町を出たものを、また迎え入れる訳にはいかん」 「そんな事情はどうでもいい。年端もいかん娘が死にかかっているんだ。おめえら、子供はいねえのか!?」  声はまた沈黙した。  再び響いたそれ[#「それ」に傍点]は、別人のものであった。 「移動するぞ、そこを退け」  言ってから、動揺したふうに、 「そっちの若いの——おまえ、ひょっとして、Dという名ではないか?」  青年はかすかにうなずいた。 「——おう、それなら、最初から名乗ればいいものを。おぬしを呼んだのはわたしだ。町長のミンという。さ、すぐに入れ」  機械音が唸り、鉄扉が上へ開いて、昇降段が滑り出してきた。  Dが静かに言った。 「連れがいる」 「連れ!?」  ミン町長の声が揺れた。 「おぬしは、天上天下に孤高のハンターときいたぞ。いつ、連れをつくった?」 「さっきだ」 「さっき!?——その二人のことか?」 「他に見えるか?」 「いや——しかし……」 「おれは、彼らと一緒に戦った。理由はそれだけだ。用がないのなら失礼する」 「ま、待て!」  声は動揺と決意の変換を込めていた。 「おぬしに行かれては困る。特例として認めよう——上がってこい」  地響きをたてて地についた幅広の昇降段へ、バイクとサイボーグ馬ごと乗るや、階段は上昇を開始した。 「エスカレーターとは気どってやがる」  プルート八世が堂々と毒づいた。  |基台《ベース》の|内側《なか》へ吸い込まれるとすぐ、背後で鉄扉が閉まり、二人は油臭い、広い空間に出た。  数人の武装した壮漢と、白髪の老人が立っていた。身体つきは、周囲の男たちよりむしろたくましい。  ミン町長だろう。足が不自由なのか、右手にスチール製の杖をついていた。 「よく来てくれた、わしがミンだ」 「挨拶は後回しだ。医者はどこにいる?」  プルート八世の叫びに、町長はうなずき、それを合図に、二人の男たちが前へ出て、プルートの背から少女——ローリイを解放した。 「おぬしの連れは、用件よりも食い気だろう」  と町長が別の男たちに目配せした。 「そうとも、話がわかるぜ。ほんじゃな、D。また会おう」  プルートが悠々と男たちに案内され、横のドアに消えると、町長は階上へつづく通路へDを導いた。  |渺々《びょうびょう》と風が鳴っていた。  四方を灰色の光景が過ぎていく。  森と山であった。 「街」は、辺境第二の平原地帯「イノセント・プレイリー」を通過しているのだ。  風が荒野の周囲を遠く彩るものを水墨画のようになびかせ、漆黒のケープと長い黒髪をも吹き乱した。 「どうだ、この眺め、雄大なものだろう」  闇の果てに眼を向けつづける若者の無表情を感嘆と読んだか、ミン町長は平原の彼方へ薙ぐように片手を振った。 「街は時速二十キロの巡航速度を保つ。六〇度までの傾斜なら、いかなる山脈も崖もよじ登ってみせる。ただし、エンジンへ反重力エネルギーの全面注入が可能なときのみだがな。こうして、五百名の住人には、常に安全で快適な旅が保証されるのだ」 「快適な旅か」  Dのつぶやきが町長の耳に届いたかどうか。 「到着したところもそうだといいが——用件をきこう」  暗天で鳴る風がまたも髪を吹きなびかせた。  ふたりは街の先端に設けられた展望台に立っていた。船ならば、|舳先《へさき》、いや、衝角にあたるのか。基台の上端から突き出たそれは、雨といい風といい、四季の滋味を味わうには、まこと適切な場所と思われた。 「あの娘のこと、気にはならんのか?」  Dの要求には答えず、町長は別のことを訊いた。 「用件だ」 「ふむ。レーザー・ビームも断ち切る剣技に、人らしい感情のすべてを捧げた男か。——噂通りらしいな。どんなに貴族の血が濃いダンピールといえど、もう少し人間らしいが」  Dは音もなく身を翻した。 「まあ、待て。気の早い男だな」  さほどあわてたふうもなく、町長がとめた。 「|吸血鬼《バンパイア》ハンターを呼んだ理由はひとつ——貴族退治しかあるまい」  Dはふり向いた。 「二百年前、あの男を乗せたとき、よもやこのようなことが起きるとは思わなんだが……一生の不覚だった」  乱れる髪をDは左手でかき上げた。 「そいつは、|北方大山脈《ノース・グレート・マウンテン》の麓にひとり立っておった。照明光の中に浮き上がった姿は、闇が凝固したようだった。行きずりのものは乗せぬのが掟のこの街が、ふと足並みを止めたのも、そのせいかもしれん。深くて昏い眼差しをしていた。そうよな、おぬしによく似ていたぞ」  言葉の間隙を風が埋め、新たな声はやはり町長のものだった。 「乗り込んですぐ、奴はこのデッキに上がり、長いこと夜の荒原と|峨々《がが》たる|山脈《やまなみ》に眼を向けていた。それからおもむろに、私に向かい、こう宣言をしたのだ。この町の住人から、知力、体力ともに秀れた男女を五名ずつ供出せよ、と。  ——無論、私は一笑に付した。すると、奴は高らかに哄笑して言った。余の申し出を受ければ、一族に千年の栄光あらん。拒否すれば、この街は未来永劫呪われた存在として、死の荒野をさまようであろう——と」  町長は言葉を切った。妙にのっぺりとしたそのたくましい顔に、黒い疲労がこびりついていた。 「奴は消えた。一抹の不安が私の胸を満たしたが、その後、街には何事も起こらなかった。二百年の歳月は単なる平穏の連続ではなかったが、いまは言い得る、至福のときだったと。いまが暗黒のただ中にいる故にな。この街が奴の呪いの通りにはなっても、栄光と祝福に彩られることは二度とあるまい」  町長は、その運命が見せたくて、このデッキに吸血鬼ハンターを招いたのかもしれなかった。 「来てくれ。これからが本題だ」  娘は粗末なベッドに横たわっていた。  白蝋のごとき肌と喉元の傷を見るまでもなく、貴族の犠牲者たることは明白であった。天井を見つめる眼だけが妙に生き生きとしているのが不気味だった。 「娘のラウラだ。——十八歳になる」  と町長が言った。  Dは枕元で白い喉を見下ろしたまま動かない。 「三週間前から様子がおかしくなった。風邪気味だとマフラーをしはじめたので、気がついた。想像もできなかったよ、まさか、この街に貴族が現れるとは」 「それ以後、血を吸われたか?」  氷のようなDの口調に、町長は苦悩の顔を縦に振った。 「二度だ。どちらの晩も、戦闘員が見張っておったのだが、気がついたら眠りこんでいたらしい。ラウラの血だけは減少し、貴族は影も形も見えん」 「調査はしたのか?」 「五回——徹底的にな。村のものは全員、陽光の下を歩ける」  それが必ずしも|現在《いま》では、貴族判別の決め手とならないことをDは知っていた。 「それは後で再調査するとして、今晩はおれがつく」  町長の鋼の表情に安堵の色が渡った。二百年以上を生きた男も、父親の心根は具えているらしい。 「ありがたい。何か用意するものは?」 「結構」 「失礼だが、意見を言ってもよろしいですか?」  きつい口調が二人に、もうひとりの同席者の存在を憶い出させた。  ドアの脇に腕組みをして立つ若い医者である。  ぶんむくれの表情を隠そうともせず、Dを睨めつけている。 「これは失礼したな、ドクター・ツルギ。何かご異存でも?」  町長は若い声の主に一礼した。Dをこの部屋に招いたとき、すでに自己紹介は済んでいる。辺境の村から村を巡る巡回医師の若者であった。  黒髪と黒瞳はDと等しく、年齢もさほど変わらぬようだが、無論、ダンピールたるDの年齢が明らかでない以上、外見上の比較は意味をなさない。  まだあどけなさを残した知的な顔が左右に揺れ、 「異存はありません。医師としての私にもはや成す|術《すべ》がない以上、後はこちらのハンターにおまかせします。ですが——」 「ですが?」 「私もともにラウラさんを見守らせていただきたい。口はばったいようですが、これも医師の務めだと思います」  ミン町長はステッキの握りの端で額を叩いた。若い医師の申し出をもっともだと認めながら、厄介なことを言い出したものだという想いもこめられていただろう。彼が自分の方をふり向く前に、Dが返答をした。 「敵が逃げなければ戦いになる。おれは君をかばってはいられん」 「自分の面倒くらい、自分でみられます」 「奴らに噛まれてもか?」  その言葉の意味は辺境に生きるものの常として理解しているのか、熱血漢の表情は一瞬強張り、しかし、決然として、 「承知です」  と言い切った。  眼は燃えるような激しさでDを見つめていた。睨みつけていると言ってもいい。  Dはうなずきもせず、 「断る」 「な、なぜだ!? いや、なぜ[#「なぜ」に傍点]です!? 私は自分で——」 「君にもしものことがあったら、街中がおれの敵に回る」 「そ、それは……!?」  ツルギ医師は呻いた。顔が真っ赤な憤怒の色に染まり、しかし彼は唇を噛んで、それ以上の自己主張を抑えた。 「では、出ていってもらおう。おれはこの娘に訊いてみたい[#「訊いてみたい」に傍点]ことがある」  冷ややかに言って、Dがドアの方を見た。退席せよとの合図である。なおも逆らおうとする気力を霧消させるものが、この若者にはあった。  町長とツルギ医師がドアの方へ向かったとき、彼らの手前で木製の扉は軋み音をたてて|開《あ》いた。 「よっ——元気か、大将」  陽気な声を先頭に、ぬうっと突き出た顔は、まぎれもなくジョン・M・ブラッサリー・プルート八世であった。 「どうやってここへ来た?」  町長が鋭い声で訊いた。 「も、申し訳ありません」と背後でガードマンらしい町民の声がした。「恐ろしく強引な奴で、えらい力です」 「堅えこと言うなよ、おっさん」  とプルート八世が愛想笑いを浮かべて言った。 「多分、あんたの家だろうと見当をつけたんだ。町長の家がどこか知らねえ奴なんざいなかったぜ。それより——おい、D、あの|娘《こ》の容態がわかったぜ。おれぁ、それを知らせに来たんだ」 「とうに私が教えたよ」  とツルギ医師があきれたように言った。 「君が食事をしている間に容態はわかっていた」 「なんでえ、おれだけ仲間はずれか」  プルート八世は密林を上空から|俯瞰《ふかん》したみたいな髯を激しく指で掻いた。 「ま、いいや。——おい、D、見舞いに行こうや」 「君にまかせる」  最初から無関心のように、ベッドの上に身を屈める美青年へ、 「なんだよ、おめえ。自分が生命懸けで助けた娘の無事な顔を見たくねえのか? 町長の娘がそんなに大事か、おい?」 「仕事だ」  絡むような質問に答えるのも、Dには奇蹟に近いのだが、プルート八世にはわからない。先刻のツルギ医師同様、憤然たる顔つきでドアから身を乗り出してきた。 「なんつーこと言うんだ、この!」  と罵る。唾が激しくとんだ。 「ほんとうに、あの娘がどうなったか知ってるのか? 言語中枢放射能汚染レベル|3《スリー》、聴覚汚染レベル|3《スリー》、どっちも治癒は不可能だ。肌にも軽度の火傷を負って、人造皮膚のスペアには限りがあるから、生命に別状ねえところはそのまま残す。いいか、お星さま見て涙流すような年頃の娘が、眼の前で親父とおふくろが食われちまった記憶を背負い、身体はまだら[#「まだら」に傍点]、おまけに声も出せねえ、耳もきこえねえって羽目に陥っちまったんだぞ」  ひとりの娘にとって破滅に等しい悲劇の内容よりも、プルートの義憤が町長とツルギの眼を伏せさせた。  Dが静かに報いた。 「話はきいた。出ていけ」    3  |喚《わめ》き散らすプルート八世を、ガードマンと町長らが五人がかりで連れ出すと、Dは、ラウラの顔を上から覗き込んだ。  虚ろな、そのくせ奇妙な生気に溢れた瞳が突如、|焦点《フォーカス》を結んだ。  隠蔽されていた意思の凝集が、瞳を赤く染めた。  それは貴族の意思であった。  ごおおと口腔が吐息を吐き出した。冥府への|洞窟《うつろ》から噴き出る腐敗風のように。 「何しに来たの、あなたは?」  毒素すら滲ます瞳がDの眼を貫いた。ラウラは唇を歪めた。にちゃにちゃいう舌と唇の間に光るものが見えた。  犬歯だ。 「何をしに来たの?」  ラウラはまた訊いた。 「君を蝕んだものは何処にいる?」 「蝕む?」  少女の唇が笑いの形に歪んだ。 「このような法悦が味わえるのなら、日ごと夜ごと蝕まれたいものだわ。あなたは何者? ただの旅の人ではないわね。蝕むなどという言葉、使える人はざらにいない」 「そいつは|何時《いつ》、ここへ来る?」 「さあて……その人にお訊きになれば?」  楽しげな表情が、突然、硬直した。邪悪も法悦も薄皮を剥ぐように拭われ、ほんの束の間、十八歳の娘にふさわしいあどけない寝顔がかすめて、白蝋のごとき無表情と化す。  北方大平原地帯に夜明けが訪れたのである。  Dの左手が上がり、少女の額に乗った。 「君を襲ったのは何者だ?」  死者の顔に意識が戻った。 「……わから……ない。……赤い眼が、ふたつ……近づいてくる……だけ……」 「この街のものか?」 「……わからない……」 「いつ、襲われた?」 「……三週間前……公園……暗闇の中で……眼ばかりが燃え……て……」 「次はいつやって来る?」 「あ……ああ……こ……今夜……」  身体中に突如、|発条《ばね》でも生じたかのように、ラウラの身体は反り上がった。勢いで毛布が吹っ飛ぶ。  絶息したように喉が鳴り、舌を吐き出すと、身体は妖々と浮上しはじめた。  貴族への隷属とそれを排除する力とのせめぎ合いの際に生じる超常現象である。ハンターなら頻繁に目撃する機会があるため、Dは顔色ひとつ変えない。いや、この若者の表情が驚愕を知ることは永久にないであろう。 「ここまでじゃな」  娘の顔とあてがった手のひらの間から|嗄《しゃが》れた声が言った。 「この娘、口にしたこと以外は知らん。確かに、そやつに訊くしかなかろう」  手をのけると、ラウラは激しい音をたててベッドへ戻った。  水のような蒼い光が窓の外からさしめぐむまで待ち、Dは部屋を出た。  町長が待っていた。 「何かわかったかね?」  助かるか、とは訊かないところに辺境に生きるものの|精神《こころ》があった。  犠牲者の血に呪いをかけた吸血鬼は、その身辺に|狩人《ハンター》の手が伸びた場合、よほど未練のある相手でない限り、姿を消す。  それから後は、|時間《とき》だけの問題だ。  吸血の深さと回数によって、犠牲者の未来は変わる。五|度《たび》寝室を訪れられても、人々に|疎《うと》まれる以外は通常の生活を営み一生を終えるものもいれば、たった一度の口づけでも白蝋の肌と化し、再度の訪問を待ちつつ、老いも知らずに永劫をベッドの中で過ごす少女もいる。  ある日突然、ひからび、ミイラのごとき肢体となった彼女を見て、年老いた[#「年老いた」に傍点]孫や曾孫たちは、憎むべき貴族が何処かの地で果てたことを知るのだった。  だが、それにはどれほどの歳月を要することか。  いつか家族も係累も果てて、塵と荒廃ばかりが広がる廃屋の隅、月光だけを|糧《かて》に生きる死者[#「生きる死者」に傍点]が何名いることか。  時は陽の下を歩むものの味方ではないのだった。 「今夜、お客が来る」 「ほう、それは——」 「犠牲者は娘さんだけか?」  町長はうなずいた。 「今のところは。だが、そいつ[#「そいつ」に傍点]がいる限り、数は万人にも増える」 「用立ててもらいたいものがある」  Dは青い窓の外を見ながら言った。 「何でも言ってくれ。君の部屋ならもう用意してあるが」 「この街の地図と、住人のデータ、それに、移動開始後の全行程と以後の予定だ」 「承知した」 「おれの部屋はどこだ?」 「案内させよう」 「無用だ」 「公園近くの一軒家だ。古いが木でできている。場所は——」  伝えてから町長は、両手でステッキの握りを押さえ、 「今夜だけですべて解決すればいいが」  とつぶやいた。 「娘さんは何処で襲われた?」 「公園近くの空き家のひとつだ。我々が調べたときは何も見当たらなかったが——君の家からも近い」  Dはその場所を尋ね、町長は答えた。  Dは外へ出た。  風は絶えていた。音だけが鳴っている。街の何処かに|遮蔽装置《シールド》が仕掛けてあるのだろう。自然の猛威からの守りは完璧というわけだ。  青い光が街路をゆくハンターを寒々しく浮かび上がらせた。  地に落ちる影は薄い。ダンピールの宿命であった。  居住区に生者の気配はない。安寧の夜に、人々は呼吸する死者と変わるのだ。  前方に小さな光点が見えた。  暁光を手招くようなかすかな暖かみ。  病院であった。  Dは無言でその前をすぎた。街路ごとの表示板を見ているふうもない。歩みは風に似ていた。  二〇分ほどで居住区を抜け、公園地帯の樹木が見える寸前で足を停める。  右側に数棟並ぶ半円筒形の建物——そのひとつが目的地だった。  少女ラウラが襲われた場所である。  建物はすべて空き家と町長は言っていた。最初は問題の一軒だけだったのが、事件以来、周りの家族が引っ越しを要求し、別の棟へ移ってしまったのである。すでに荒廃が忍び寄っていた。  端の一軒だけが棒と錠で封印されていた。  板でなく棒を使ったところに、人々の恐慌が如実に示されている。錠は五つ——すべて電子|錠《ロック》であった。  Dが錠に手を伸ばした。  胸のペンダントが蒼い光を放ち、白い指先が触れただけで、錠はことごとく足元に落ちた。  指はすぐ十文字に打ちつけられた棒を掴んだ。  直径二十センチを超す自然木の丸棒をリベットで打ち止めたものである。Dの手は半分も回らない。力の入れようがあるとは思えなかった。  指先が木肌にめり込んだ。  一切の停滞はなく、左手のひと引きで棒は二本とも剥ぎとられていた。  棒の形にペンキの落ちたドアを押し、Dは内側へ入った。  臭気が立ち込めていた。  色彩が感じられるような臭気であった。色彩は無数。いずれも毒々しいイメージだ。  何か限りなく不吉なものが、この廃屋には漂っているようであった。  窓にも板切れを打ちつけられた暗い廊下をDは飄然と進み、やがてひとつの部屋の前に立った。  ラウラはここで発見されたのである。徹底的な捜索が行われたとの町長の言葉通り、室内から動かせるものの姿は消えていた。テーブル、椅子、戸棚、何ひとつない。  何を調べようという風もなく、少しの間、部屋の真ん中に突っ立っていたDの瞳がかすかに動いた。  音もなく廊下に出る。  今まで辿ってきたのと直角に交わる通路の端に、隣室のドアが見えた。  そこから黒い影が転がり出た。不定形の染みのようなものであった。  輪郭は水中の藻みたいに蠢き、中心は渦を巻いている。  そいつが立ち上がった。  二本の足が見えた。かろうじて胴と頭部も判別がつく。  一種の|隠秘膜《バリヤー》に包まれた人間だ。  ここで何をしていたのか。  Dはゆっくりと前進した。  染みは動かない。手も足も刻々とその形を変え、それでいて、機能的な判別はつくのだった。 「何者だ?」  Dは静かに尋ねた。静かながら、無視も無返答も許さぬ響きがあった。 「ここで何をしている?——答えろ」  染みは揺らぎながら突進してきた。  狭い廊下だ。Dにかわす|術《すべ》はない。  右手が背の長剣へ——  その眼前で、敵は手をふった。  黒い円盤がDの顔面を襲う。  間一髪、頭を下げてDは長剣を抜いた。  何を見抜いたのか、それで円盤ははじかず、抜いた刃を下方から薙ぎ上げる。  すでに突進を中止した敵の股間に迸る白光の凄まじさ。  敵は下から両断された。  しかし——  わずかに全身を揺らしただけで、蠢く影に変化はない。  後方で何とも言えない音が響いた。  Dは構わず進んだ。  影は音もなく後方の壁に貼りついた。  それは確かに影であったのか、明らかに三次元の身体は突如厚みを失い、平面と化し、音もなく壁に吸収されてしまったのである。  Dは無言で壁の前に立った。  灰色の強化プラスチックの表面が|仄《ほの》光っている。  音もなく壁を抜ける超能力——|分子浸透《モレ・インター》の後遺症であった。  原子構造を変化させ、障害物の分子間を通過する過程で、微妙だが放射性同位元素に変化が生じるのである。Dの一撃を回避したのも、この技であったろう。  Dは|踵《きびす》を返し、廊下の縁へ眼をやった。円盤は消えていた。どこにも衝撃の跡はない。Dは影の現れたドアを押した。  薄闇に閉ざされた実験室のようであった。  壁は薬品棚が埋め、床に固定した実験テーブルにも焼け焦げや、変色した染みの痕が濃い。機械装置をはずした跡も目についた。  部屋の中央でDは立ちどまった。  窓には|障壁《シールド》が下りていた。  光を閉ざした暗黒のさなかで、どのような実験が営まれていたのか。  そこにあるのは極めて悲劇的な何かだった。  侵入者はここから出て来た。  最初から何処かに|棲《す》んでいるのか。それとも、Dのやってくる前に侵入し、何かを探し求めていたのか。  多分、後者だろう。  だとすれば、割り出しは比較的容易となる。この街に住むのは五百人。捜索が不可能な数ではない。  Dは外へ出た。  この家には何かがある。ただ、その正体が掴めぬのだ。  天空の恵む日差しは白く変わっていた。  戸口でDは足を停めた。  街路に黒い雲が蠢いていた。  人垣であった。人の輪である。  街の住人すべてが集まっているのではないかと思われた。  激しい敵意と恐怖に彩られた視線は、Dの正体を彼らが知悉していることを物語っていた。  Dは悠然と街路へ出た。  ぬうと眼の前に黒い壁がそそり立った。  身長二メートル、体重百五十キロといったところだろう。胸筋の厚さも幅も大火竜の鱗ほどはありそうな巨漢だった。  一メートルほどの距離をおき、Dは男を見上げた。 「おめえ——ダンピールだってな?」  低い声は朱色の恫喝に濡れていた。  Dは答えない。  男の面貌に水のように流れたものがある。脅えの色であった。彼はDの眼を見つめたのだ。次の言葉を絞り出すまで一〇秒近くかかった。 「町長の家へ呼ばれたんなら仕様がねえ。だがな、こかぁ、まともな人間の住む街だ。貴族との混血がうろつかねえでもらおうか」  周囲の顔が一斉に動いた。縦に。男も女も子供もいた。 「貴族はここにいる。あるいは貴族の|下僕《しもべ》が」  Dは静かに言った。 「次はおまえの家族が襲われるかもしれん」 「そんなときゃあ、おれたちの手で片をつける。おめえら貴族の仲間の手は借りねえ」  かすかにうなずき、Dは歩き出した。  それだけで、竜を恐れる水のごとく、巨漢も人々も左右へ分かれたのである。 「待ちやがれ!」  脅えを恥じたのか、放たれた巨漢の声は、ヒステリカルな獰猛さを帯びていた。 「野郎、いま叩き出してやる」  言いながら、巨漢は黒い皮手袋をはめた。  表面は単なる皮と見えるそれの手のひらは、薄い柔軟な金属繊維で埋められていた。  巨漢が両手をはたき合わせると、紫色の火花が|珊瑚《さんご》のような触手を伸ばし、人々は声もなく後退した。  狩りに使用する電磁手袋であった。  最大電圧五万ボルト。  中型火竜までなら斃せる、必殺の武器だ。 「おめえ、半分は人間だろうが。それとも三分の一か。どっちにしろ、なまじおれたちに近いのが運のつきよ。薄汚ねえ貴族の血だけが黒焦げになるようお祈りするんだな」  凶暴な自信を紫の火花がグロテスクな色に染めた。  Dは飄々と歩み行く。  巨漢が走った。  右手を大きくふりかぶる。  Dの動きにも表情にも変化はない。光を知らぬ影のように。  鋭い光が空気を灼いて走った。  巨漢が手を振った。  その|平《ひら》で激しく火花が飛び交い、地へ堕ちたのは、細いメスであった。 「何しやがる!」  巨漢の怒声はDを越えて前方へ走った。  白衣の裾を閃かせて大股にやってくるのは、ツルギ医師であった。 「おう、|医師《せんせい》——何の真似だ?」  精一杯きかせた凄みがわずかに震えているのは、メスの威力を認めたせいだろう。  ざわめく人々の前で立ち止まり、ツルギ医師は鋭く言った。 「やめんか。こちらは町長のお客だぞ! 彼を追い出すより、協力して貴族を見つける方が先決だ——ベルグさん」  一同の中でも年長の老人が動揺を示した。 「あなたがいて、何故みなを止めんのです? ハンターがいなくなれば、貴族の跳梁はわかりきったことだ。我々の捜索はすべて失敗に終わっているのですぞ」 「い、いや、わしもそうは思うんだが」  ベルグは口ごもった。 「——だが、単なるハンターならともかく、ダンピールというのは、やはりいただけん。彼が来たという噂をきいたときから、女房も子供も脅えっぱなしなのだ」 「それは脅えるだけで済みます——貴族相手では、そうもいかんのですよ」 「だ、だけどさ、|医師《せんせい》」  赤ん坊を抱えた中年の女が言った。 「ダンピールだって、やるっていうじゃない。——飢えたら、依頼主の血を……」 「そうともよ」  巨漢が吠えた。 「おれたちゃ根拠のねえ文句をつけてるのと違う。街ごと彷徨っていても、情報は入ってくるんだ。ピーモンドの事件は知ってんだろ?」  それは、一夜にして町民の半数が失血死した村の名前だった。  貴族の血を引くダンピールは、それなりに鉄の意志を有するが、時折、血の誘惑に敗れる|精神《こころ》の主もいる。  ピーモンド村に雇われたその男は、村長の娘の美しさに抑えに抑えた黒い血の絆が甦り、ついに|狩人《ハンター》自身が恐るべき獲物の一員と化してしまったのだ。  村人総出で取り押さえ、心臓に|楔《くさび》を打ち込まれるまで、犠牲者の数は二十四名に達した。 「それは例外中の例外だ!」  ツルギ医師の言葉に揺るぎはなかった。 「私には最新の統計がある。ダンピールが扱った仕事中、そのような悲劇が生じた割合は二万分の一パーセントにすぎん」 「こいつがそうじゃねえという保証がどこにある!」  巨漢は叫んだ。 「おれたちゃ二万分の一パーセントにだってなりたかねえぜ。なあ、みんな」  そうだ[#「そうだ」に傍点]の声が幾つも上がった。 「|医師《せんせい》よお、そういやあんたもこの街の人間じゃなかったよな。え? そいつをかばいだてするのは|他所者《よそもん》同士の義理か? それとも——おめえら、最初から|共犯《ぐる》なのか?」  ツルギ医師の顔から表情が消えた。彼は前へ出た。 「その手袋をはめたままでやるか? それともはずすか?」  巨漢の顔が歪んだ。笑いの形だった。 「|面白《おもしれ》え」  と彼はスイッチを切って手袋をはずした。  しめた[#「しめた」に傍点]と表情に出している。  先刻のメスの手練は凄まじいが、それを除けば医師の身長は百七十そこそこ、体重も六十キロ台だ。素手の喧嘩なら熊さえ絞め殺したことのある両腕に、彼は圧倒的な自信をもっていた。 「よさねえか——コンロイ!」  ベルグがあわててとめた。 「|医師《せんせい》に怪我させたらどうする? ただの処罰じゃすまねえぞ!」 「なあに、たかが皮削ぎに電圧刑だ。もう慣れちまったよ。|医師《せんせい》の頭と腕だけは残しといてやらあ」  荒々しくベルグを押しのけ前へ出る。  同じく一歩踏み出す若い医師へ、 「やめたらどうだ?」  前方を向いたままDの声がかかった。 「もともとおれの喧嘩だが」 「もう、私のですよ、黙って見てて下さい」  しゅっと空気が鳴った。  コンロイの吐息とも風切るパンチの唸りとも取れた。  岩石をふるうような右のフックをツルギ医師は横へとんでかわした。パンチの起こす風にあおられたように。  両腕は胸前で軽く拳を握っていた。  何人が、その指の付け根に盛り上がったタコ[#「タコ」に傍点]に気づいていただろうか。  二撃めのアッパーをこれも間一髪でかわしつつ、ツルギ医師の左手が走った。  描く軌跡は直線であった。  コンロイの眼には、医師の手首から先が消失したように映った。  彼は|鳩尾《みぞおち》に三度衝撃を感じた。  一、二発目はこらえたが、三発目は効いた。  呼気は喉の途中でひっかかった。  医師のパンチには、小柄な体躯からは想像もできない|力《パワー》がこめられていた。  よろめいた下半身へ、ベージュ色の稲妻が迸った。  誰もがはじめて見る足技は、優雅な弧を描いてコンロイの膝脇を直撃し、巨漢は凄まじい地響きの音をたてて大地へ転がった。  腕を真後ろに引いての直線の突きと円を描く足——奇怪な攻撃の連鎖に澱みはなく、しかもその威力がどれほどのものだったか、すぐさま起き上がりかけたコンロイは、左膝を踏んばると同時に大きく呻いて横転したのである。 「今日一日は立てないだろうな」  青年医師は何事もなかったように、人々の白ちゃけた顔を見回した。 「さ、粗暴な煽動には乗らないこと。みな、帰った帰った」 「でもよう、|医師《せんせい》」  瓜みたいに長い顔の男がコンロイを指さして言った。 「こいつの怪我は誰が診てくれるだかね」 「私が診る」  と、ツルギ医師はあきれたように言った。 「後で病院へ連れてきなさい。ただし、三日ぐらい後に頼む。でないと怒りがとけそうもない。今後、こちらのハンターに手を出したものは、診察を控える恐れがあるからそのつもりで。はい、解散」  人々が立ち去り、コンロイも抱き上げられて去ったのを確かめ、ツルギ医師はDの方をふり返った。 「見事な手並みだ——昔、東方で見た覚えがある。何という技だ?」 「カラテと呼んでます。祖父に教わりました。しかし、よくあの挑発に我慢しましたね」 「していない。君が止めた。おれが町のものに手をかけないようにか? 何にせよ、助かった」 「いいえ」  首をふる医師の眼差しに不思議な光があった。友好というのではない、憎しみや敵意とも違う。一種の執念と言ってもいい。それがDに、 「どこかで会ったか?」  と訊かせた。 「いや、初対面です」  医師はまた首をふった。 「巡回医師と申し上げたでしょう。辺境を巡る間、色々あなたの噂は聞きました」  何か話したそうなツルギを遮り、Dはこう訊いた。 「今の空き家——誰の住まいだった?」  医師は眼を丸くした。 「知らずに入ったのですか? ローリイ・ナイト——あなたが助けた娘の家ですよ」 [#改ページ] 第二章 何処(いずこ)へ    1  娘はベッドの上に上半身を起こしていた。  雪をかぶった人形のようであった。  放射性同位元素除去剤はスノー・パーツと呼ばれる。吸収した放射能のせいでとりわけ夕暮れどき、淡い輝きを放つそれは、雪の美しさに、身も凍る悲劇を秘めているのだった。 「生命に別状はありません。容態はプルート八世からおききになったと思います」  医師の言葉にDは無言で応じた。  双眸に少女——ローリイの姿を映してはいるが、そこからどのような感慨が|精神《こころ》に湧き上がっているのか、ツルギ医師には見抜くことができなかった。あるいは何もないのかもしれなかった。それも、この若者にはふさわしいように思えた。  住宅|区《セクター》の中ほどに建つ病院の一室である。ツルギ医師と中年の看護婦の二人所帯で、風邪引きからサイボーグ化まで、あらゆる治療を行う。  逆を言えば、それが可能な実力こそ巡回医師たるものの資格なのである。 「筆談はできるかね?」  Dの問いにツルギ医師は首をひねった。 「短時間ならば。——ですが」 「………」 「ショックを受けるような質問は避けていただきたい。相手は身も|精神《こころ》も傷ついた少女です。もう自分の運命も心得ています」 「幾つだ?」 「十七歳です」  Dはうなずいた。それでも医師は不安そうだったが、すぐに少女——ローリイのかたわらに歩み寄り、枕元においたメモと電磁ペンを手にとり、何かを書き記した。  Dの紹介だろう。  白い肩がかすかに震え、うつむいた顔がわずかにDの方へ向いて——止まった。  それが元の位置へ戻り、これも純白の指が医師の電磁ペンを握るのを、Dは無表情に見つめていた。  小さく、けれど力をこめて、ペンは動いた。拒否するように。  メモを破いて医師は立ち上がり、Dに手渡した。  美しく端整な筆跡は、ありがとうございました、と読めた。  メモを医師に返し、Dは無言でローリイのかたわらにある椅子へ腰を下ろした。  白片の間からのぞく青い瞳が突然、大きく見開かれた。  少女は顔をそむけた。  すぐに戻してうつむく。Dを見知っているかのような反応であった。  医師がもうひと組のペンとメモをDに手渡した。  すぐ、Dの手は動いた。 『君の家に誰かがいる。以前からおかしなことはなかったか』  ローリイは差し出されたメモをじっと見つめた。長いことそうしていた。首を横にふるまで、一〇分もかかったように思われた。  再びDの手が文字を紡いだ。 『父上の実験内容を知っているか?』  首はまた横にふられた。  Dがペンを握りなおした。  ローリイは首をふった。何度も何度もふった。両肩もそれに加わった。  除去剤のシールが雪片のように舞った。  ツルギ医師がその肩を押さえた。  ローリイはなおもふろうとした。 「出て下さい、早く!」  医師はDに向かって言った。  ドアを開けて看護婦がとび込んできた。  Dは立ち上がって訊いた。 「プルート八世の部屋は何処だ?」 「確か——特別住宅区のP9。治安局の隣です」  叫ぶような声は、閉ざされたドアに反響して消えた。  病院を出て、Dは街路を歩いた。  ローリイの突然の狂乱をどう見たか、眼差しはあくまでも冷たく澄んでいる。この若者の瞳の中では、あらゆる感情が濁りと映るだろう。  街路を行き交う人々は多かったが、Dの前方は難なく見通すことができた。  人々はことごとく左右へ退いたのである。  それは単なる、人外境に生きるものへの精神的、迷信的な嫌悪によるものではなく、この若者の美貌と雰囲気のせいであった。  誰にもわかるのだ。  |街路《みち》を往くもの、|人間《ひと》のみにあらず、と。  そうでいながら、男も女も、Dを見つめる瞳には陶酔の色がある。  恐怖とは別に、戦慄すら覚えるその美貌は女ばかりか男にさえ、一種性的なエクスタシーを感じさせるのだった。  男も女も大半は農具と作業衣を身につけていた。  大地での生産を営まぬこの移動街区でも、それなりの生活活動は行われているのだ。  公園の彼方には農園と田畑、工場地帯が広がっているのだろう。  治安局はすぐに見つかった。  局といっても、同規模の街の治安官事務所と大差はない。  通りをはさんだ青い建物群が、特別住宅|区《セクター》だった。  三階建てのホテルを思わせる建物がふたつ——それだけだ。  ドアの前へ近づいたとき、通りの向こうから、陽気な声がかかった。  ふり向くと、プルート八世がとことこ[#「とことこ」に傍点]とやってくるところだった。両手には色彩の大群——花だ。 「よう、どうしたい、色男!」  町長宅での喧嘩腰など忘れ果てたような、人の好い笑顔だった。  Dの前まで来て、周囲を見回し、 「なんて、愛想のねえ街だ」  と毒づく。 「花屋が何処にもねえときてやがる。造花園があるというから行ってみたら、他所者には売らねえとよ。ま、珍しいこっちゃねえが——畜生、病人の見舞いだつっても、OKしやがらん」  本気で憤慨していた。口から泡をとばさんばかりに、 「おれは、ローリイのための花だって言ったんだ。おまえらと一緒に暮らしてた娘のもんじゃねえか。いくら街を捨てたからって、好きで帰ってきたわけじゃねえ。親父さんもおふくろさんも失くして、大怪我こさえて、死ぬ思いで助けを求めて来たんだ。畜生——それでも駄目だって言いやがる。一度捨てたら|他所《よそ》者だってよ」  食いつかんばかりの形相へ、Dは静かに言った。 「その花はどうした?」 「いや、まあ。しかし、おれは怒っとる」 「はじめてされた仕打ちでもあるまい」 「そりゃ、そうだな」  プルート八世はあっさり首肯した。  恐るべき気分転換のスピードであった。 「ま、しゃあねえか。ところで——おれに用かい」 「訊きたいことがある」 「そうか——立ち話も何だな。ま、その角の向こうが酒場だ。一杯やりながら話そうじゃねえか。ケケ、人の血はねえがよ」  相手の正体を知っている以上、これは恐ろしい結果を招く冗談といえたが、Dは気にした風もなく、先を行くプルート八世の後について歩きはじめた。  酒場は混んでいた。  街での作業は交代制なのだろう。  二人が入ると、ざわめきがぴたりとやんだ。カウンターのバーテンやテーブルを囲む男たちの眼が、一斉に二人へ注がれる。 「おっと、ごめんよ、はいはいはい」  混み合ったテーブルの間を人なつっこい挨拶とともにプルート八世は進み、奥まった空きテーブルに腰を下ろした。  恐るべきドラ声で、 「おお、ビタ・ビールな。それと——」  とDの方を向き、きょとんとした風に、 「おめえ、何にする?」 「いらん」 「阿呆、酒場に入っていらん[#「いらん」に傍点]で済むか——面倒だ。同じのふたつ」  喚くように言ってから、 「で、用件てな何だい?」 「さっき、ある家へ入った」  とDは言った。 「おかしな奴がいた。——あれは、おまえか?」 「なんだ?」 「この街のものが、今さらあの家を荒らすとは考えられん。他所から来たといえば、おれとおまえだ」 「はっはっはあ」  プルート八世はのけぞり返って大笑した。周りの連中がぎょっとしたように眼を剥いた。 「残念だが、おれじゃねえ。おれだったとしても、はい、そうですと言うと思うか?」 「おまえは何故、ここにいる? 降りた方が向いていると思うが」 「おれもそう思うよ」  プルート八世はあっさりと認めた。 「だがよ。なんつっても、下にくらべりゃ、ここは天国だあな。金払や大抵のものは買えるし、物騒な貴族の手先とやり合わなくても済むしよ。ま、おン出されるまでいるさ」 「花は買えなかったぞ」 「大勢に影響はねえさ」  自信ありげに笑ったとき——  店の入口から、幾つもの人影が雪崩れ込んできた。  灰色の髪をした老婆を先頭に、屈強な若者が三名。全員、血相を変えている。  Dがテーブル上の花束に眼をおとし、 「盗んだな」  と訊いた。 「阿呆、借用したのよ。金は払わなかったがな」  店内がざわめき、二人のテーブルを幾つもの影が取り囲んだ。 「こ、こいつだよ、花泥棒は。——間違いない」  老婆の金切り声と細い指がプルート八世の顔面を指した。 「なんでえ、人聞きの悪い」  とプルート八世は眉を寄せた。 「病人の見舞いに拝借しただけじゃねえか。花も喜ばあ」 「何を言ってるのさ!?」  老婆は頭髪と眼尻を吊り上げた。 「この街で花一本、どんなに丹精込めてつくったか。おまえにわかってたまるか。こそ泥野郎!」 「その通りだ」  と包囲網を形成するひとりが相槌を打った。 「盗っ|人《と》は、それなりの処罰を受けねばならん。表へ出ろ」 「やーだね」  とプルート八世は嘲笑した。 「出なかったらどうする?」 「仕方がない、腕ずくだ」 「へっへっへっ」  緊張した男たちの顔に、自信ありげな笑いが飛んだ。 「おまえら、おれを誰だと思う。辺境にその名も高き、ジョン・M・ブラッサリー・プルート八世さまだぞ」  沈黙。 「知らんのか、畜生め」  とプルート八世はしかめっ面をつくり、 「それじゃ、こっちは承知だろう。辺境一のハンサムにして、最高の貴族|殺し《キラー》、闇の美が結晶した夢魔の使徒——吸血鬼ハンター“D”だ!」  居並ぶ顔が蒼白となった。  店の奥にいる男たちまでも。 「ケケケケケ! 知名度抜群ね……」  プルート八世は腹をかかえた。  死人と化した男たちを見回し、 「これでも表へ出るかね。おれの相棒はレーザーの光も切るぜ」 「断っておくが、おれには関係ない」  Dはテーブルの一点に視線を据えたまま言った。 「なんだ——?」  プルート八世が目をまるくした。 「冷たい野郎だな、相棒じゃねえか。ハッハッハ、おめえら、これは冗談だぞ」 「表へ出たければ出るがいい。ただし、おれははずしてもらおう」 「何て野郎だ」  プルート八世は憤然と立ち上がった。 「ビールの恩を忘れたか!」 「済んません、お客さん——」  と、カウンターの向こうから声がした。 「ビール切らしちまってよお」 「ええ、ちきしょう! きょうは厄日だ!」  プルート八世は毒づいた。 「つべこべ言わずに出ろ!」  と包囲網を形成する男のひとりが言った。 「花一本でも、盗っ人はそれなりの目に遭わねばならん」 「ほう——どうする気だ」 「電子鞭一千回か、最重労働三十日だな」 「ごめんだね。——まあ、とにかく出ようや」  ジロリと怨みがましい視線をDに浴びせ、プルート八世はさほど恐れげもなく、男たちの後に続いた。  店内の視線は、それでもなお、外での闘争よりも、テーブルに残るひとりの美青年にそそがれていた。  男たちは四人いた。  二人は三十代、もう二人はまだ若い。|二十歳《はたち》前後だろう。  辺境の労働者の常で、筋肉は粗末な着衣の下からも形を整えていた。全員身長は百八十センチを超えている。対するプルート八世は百六十センチ。肩幅、胸の厚みはひけをとらぬとは言え、素手の闘争では圧倒的に不利だ。 「さあて、誰から来る……?」  声と同時に、プルートの指が鳴った。 「余計な痛い目をみるな」  と、リーダー格らしい男が言った。 「黙って治安局へ行き、ふたつの罰のうち、どちらかを選択すれば済むことだ」 「ケケケ。やだね」  プルート八世の顔は自信に満ちていた。口のあたりを覆った髭の下で、赤黒い舌が唇を舐めた。 「おれは、数を頼んででけえ面する野郎どもが大嫌えなんだ。一人が性に合ってるんでな。凄みをきかしてねえで、早くかかっていらっしゃい!」  最後の言葉を挑発と理解する前に、左から若い男が殴りかかった。  声も吐息も出さない。喧嘩の腕は一流だったろう。  ふたつの影が交錯する寸前、プルートの方が、姿勢を崩さず後方へ流れた。  右腕を思い切り振った姿勢をとったまま、若いのは体勢を立て直すこともできず、肩から地面にへたりこんだ。  何がどうなったのか——。  馴れ合いとしか思えぬ瞬時の攻防であった。 「はい、お次!」  プルート八世はニッと笑った。  邪気のない顔であった。心底喧嘩を楽しんでいるようだった。  あのツルギ医師の技すら平凡と見えかねぬ奇怪な技倆だった。  残る三つの影を動揺がつないだ。 「どうしたの? 三人一緒でもいいんだぜ。ほおれ……」  両手を無防備に垂らし、プルート八世は殴ってくれといわんばかりにその顎を突き出した。 「野郎!」  三十代の二人が吠え、前後から突進した。  プルート八世の奇怪な攻撃に対する防御は、息をたっぷり吸いこんだ分厚い腹筋に任せ、短躯をひねりつぶそうと両手を広げる。  あくまでも小柄な体格を見くびっての喧嘩作法であった。  それが誤りであることを一瞬が示した。  殴りかかったふたつの影の交差した地点にプルート八世の姿はなく、三メートルも後方へ跳んだ影が地面に降り立った刹那、巨漢は地面を揺るがしつつ、前のめりに倒れ伏していたのである。  それは肌寒い陽光の下、小柄なひとりの男が生み出した闘争の奇跡にほかならなかった。  ひょいとプルート八世はふり向いた。  残るひとりの若者の顔が目の前にあった。それは、Dの名前をきいたときよりも、血の気を失っていた。 「来るかい? 坊や——」  優しげな問いに、若者は疾走で答えた。  後をも見ずに走り去る影を、むしろ温かい眼差しで見送り、プルート八世は酒場の入口に目をやった。 「どうでえ。おめえのその剣より速いんじゃねえか?」  陽光さえ色褪せるような自信たっぷりの声に、Dは闇の沈黙で答えた。 「さあてと、おれはこれからあの子の見舞いに行ってくる。おめえも来るかい?」  Dは答えず、背を向けた。 「おめえ、いくら色男だって、そう無愛想じゃもてねえぜ。このごろの女はちゃあんと男の中身を見るんだ。ケケケケケ」  自画自賛する声が、遠ざかり行く黒い背に届いたかどうか、プルート八世にも自信がなかった。    2  数分後、ミン町長は黒衣の客人を迎えた。 「あの家のこと、なぜ黙っていた?——」  淡々とした声に、思わず町長をたじろがせるものがあった。 「あの家とは……?」 「娘さんが発見された場所だ。病院にいる娘——ローリイの住まいだったそうだな」 「そうだ」  町長は何気ないふうに言った。 「特に必要だとも思わんので打ち明けはしなかったが、何かあったのか?」 「何があるかは知らんが、誰かがいた。多分何かを探しているのだと思う」 「どんな奴だね?」  町長の目は好奇心に輝いた。 「言っても始まるまい。町民の中で、あの家に興味を持つような者がいるか?」 「そんなはずはない。あそこは今でも釘づけにされているはずだ」 「町民の中で|分子浸透《モレ・インター》の能力を持つ者はいると思うか?」  Dは訊いた。  町長は答えない。 「ローリイ——ナイト家は、あそこで何を研究していた?」 「彼は単なる……」  と言いかけ町長は黙ってDを見つめた。細い溜め息が唇から漏れた。 「長いことナイト家の実験は町民の関心の的だった。その結果が、ではない。何をしているか皆目見当がつかなかったからだ。  君にもわかるだろうが、このような町で、だれにも知られず秘め事にふけるのは不可能だ。個人のエゴが町民全体の生活を崩壊させる場合も往々にしてある。わしも何度となく足を運んだのだが、フランツ——あの娘の父だ——は、単なる化学実験と言うばかりだった」  町長の顔に疲労の色が濃い。  Dは無言で窓の外を見つめていた。  見渡す限り、茶色の平原が後方へ千切れ飛んでいった。町の巡航速度は鈍っていないようだった。 「もっと早く気がつけばよかったのだが——」  と町長は続けた。声は重かった。 「ナイト夫妻は町でも有数の化学者じゃった。十五年前の飢饉も、四年前の雷獣の襲撃も、未然に防いだのはすべて彼の頭脳じゃった。彼がいなければ、町の七割は鬼籍に入っていただろう。多少の道楽は大目に見ようではないかという気持ちが、平素から町民の間にもあった。  それが間違いだったのだ。ある日突然、そう、ちょうど二カ月前、彼らは町を捨てた。必死に説得したのだが、決心は余りにも固かった。——今でもあの顔を覚えておるぞ。目だけが火を噴いているようじゃった。  思うに、この町で発見したことは、呪われた下界での生活に十分役立つものじゃったのだろう。彼らならそれもできたはずだ。わしとしても降ろすしかなかった。もちろん二度とこの町へ戻ることはならぬときつく言い渡すことだけは忘れなかったが……。  それだけじゃ——」 「そうも思えん」  Dは風に話しかけるように言った。 「あの家には破滅に近い何かがある。それは誰でも気がついたはずだ。家に残されたものはどこへ処分した——?」 「そんなものはありはせん」  町長は吐き捨てるように言った。 「奇妙な薬瓶や、自分で組み立てたらしい装置が二、三個、それだけは余りに不気味なので、即破壊したが、あとの薬品類やメカは、すべてそれを利用できる実験室や工場へ転送した。変わったものなど何もない」 「その作業は誰がやった……?」 「町の連中が総出だ。名前は調べればわかる」 「おまえは加わらなかったのか?」  町長は首をふった。 「いや、わしはリーダー格じゃ。率先してあの家に釘を打ちつけたよ」  Dは黙って町長を見つめた。  限りなく暗く、限りなく澄んだ瞳だった。 「作業に加わった者のリストをつくってもらおう。訊きたいことがある」 「わしが嘘を言っているというのか?」  町長は怒ったふうもなく訊いた。 「だれでも嘘はつく——」  Dは言った。 「それもそうじゃ。——待っておれ。今コピーをとる」  卓上のインターフォンからリストアップ・コンピューターに指令が伝わり、Dへの答えがプリントされるまで五秒とかからなかった。  リストには二十人近い男たちの名前と住所が書かれていた。  紙片をコートのポケットに入れ、Dは音もなく外へ出た。  古い部屋は、煤けて感じられた。  町の中で、工場施設に次ぐ稼働部分の多い場所だったが、原子力エネルギー使用後の廃棄物は速やかに処理され、無害な塵芥として外部へ放出される。  それにもかかわらず、やはり部屋は何となく煤けて見えた。  三基の核融合炉を制御するコントロールパネルに、黒い影が忍び寄ろうとしていた。  あらゆるエネルギーを供給するこの区画は、厚さ二メートルのデュアー壁で三重に守られ、人の出入りはコンピューターがチェックする。  にもかかわらず、影はその電子の目にも触れず、記憶装置にプリントされることもなく、妖々とパネルの前に現れたのである。  影にふさわしい黒い手が伸び、パネルは決して許されぬライトの点滅を開始した。  混沌とした渦の奥に、赤い点が生じ始めていた。数個の点がやがてひとつに合体し、点から染みへ、染みから網のように姿を変えていく。  深紅の中に父の顔がある。不思議と穏やかな表情であった。  その周囲で、蒼い光が舞っていた。  それは稲妻のようでもあり、珊瑚のようにも見えた。  テーブルの上で、父が顔を上げた。  痩せ衰えた表情に喜びの色が広がっていったのは数秒後のことであった。父の唇が動き、 「解けた」  と言った。 「解けた——」  いつの間にか父と母は荒野を彷徨っていた。  遠くで風が鳴っている。霧のような冷たい風であった。  荒涼たる平原の行く手には、雲と空しか見えなかった。雲は渦を巻き、風だけを吹きつけてきた。  と、その風が彼女の周囲で人の顔をつくった。  見覚えのあるようでもあり、ないようにも見えた。  顔はひとつではなかった。  もうひとつ、こちらは見馴れた顔であった。その唇は、 「残れ!」  と告げていた。 「残れ——」  自分たちが寒風吹きすさぶ荒野を行く背後に、この声がどこまでも響き渡っているような気がした。  父と母がどこへ行こうとしているのか彼女にはわからなかった。時折、母は不安そうな顔で背後を振り返った。  荒涼たる平原のほかに何も見えぬことを知りながら、追っ手さえ歓迎したくなるような孤独な荒野のさなかで、母は迫りくるものに脅えているようであった。  彼女を不安にするのは、天空に浮かんだ見知らぬ顔であった。その目が、父でも母でもなく、自分に注がれていることを、少女は全身で理解した。  音を立てて風と砂塵が少女の顔を打った——。  Dは公園にいた。  ベンチに腰を下ろし、目の前で噴き上げる噴水の水を見つめていた。  何を考えているのか、いつものことながらわからない。ダンピールだからというのではなく、この青年はその思考形態まで、常人とは違っているようであった。  ふと、その横顔に黒い影がさした。 「おめえがDか……?」  太い声が言った。  Dは答えない。  声の主がやってきたことも、放たれた質問も最初から見通していたようだ。  ベンチの端に立っているのは、雲を突くような大男であった。身長は二メートルどころか三メートル近い。巨大な岩壁に丸太をめりこませたような体格は、その影で優にDを覆い、数メートル先の噴水の基台まで伸びていた。  青いシャツの胸に、これは奥床しく小さな輝きが揺れていた。  Dの無視など気にもとめぬように、 「おれは治安官のハットンだ。物騒な他所者から町の連中を守るのが仕事よ。そいつが町長のお客だからって、容赦はしねえ。この街にいたかったら、余計なことを嗅ぎまわらず、おとなしく時間だけ稼ぐこった。三日も働いて何ひとつ実りがなきゃ、町長だってあきらめるさ。  おめえの仲間[#「おめえの仲間」に傍点]はおれが捜す。おれが見つけて杭を打ちこんでくれる。大体、治安官のおれを無視して、おめえみてえな若造を|招《よ》んだのが気に食わねえ」  ハットンは右脇に物騒な代物を抱えていた。  七本の銃身を一つに束ねたようなロケット・ランチャーである。大型獣どころか、小さなビルなら一撃で吹き飛ばしてしまう闘争兵器であった。  腰のベルトには、大型の蛮刀がねじ込んであった。  この武器を見るまでもなく、常人なら、持ち主の身体を一瞥しただけで震え上がってしまうだろう。犯してもいない罪を、問われもしないのに自白し出すかもしれない。 「ひとつ約束してもらおうじゃねえか」  と、彼は言った。 「何もしねえでこの町を出るってよ。安心しな、おめえがそれなりに仕事に精を出してたってことはおれが町長に告げてやる。わかったな!」  返事はない。  Dの髪だけが吹き過ぎる風に揺れていた。  みるみるハットン治安官の顔に朱が差し始めた。ゆっくりと後方へ下がる。脇の下に挟み込んだまま、ランチャーの銃身がぐいと上がった。七つの発射口が、黒々とDのベンチに向けられる。 「警告があるだろうと思うなよ」  かすかな金属音は|安全装置《セフティー》を外す音であった。 「おれは一度しか忠告はしねえ。それを無視するのも逆らうのもおんなじこった。そんな奴らを生かしておいちゃあ、街はやってけねえんでな」  声も顔も晴れ晴れと治安官は言った。  風に氷の響きが交じった。 「おまえもナイト家を調査したひとりだな。あそこに何があった?」 「なにい!?」  と力んだまま、治安官は何もしなかった。ランチャーの引き金にかけた指も動かない。 「答えろ」  声はもう一度言った。  噴き上げる白い水に澄んだ目を向けたまま、それはどちらが尋問者ともわからぬ奇妙な光景であった。  二人とも動かず、しかもその間で、目には見えぬ凄絶な戦いが展開されていたのである。  治安官の人差し指にぐいと力がこもった。  |発射選択装置《セレクター》は|一斉発射《フル・ショット》に合わせてある。ベンチとそれにかけた若者が、六万度の火焔に骨まで焼かれて崩れ落ちるのは、数秒後のことであった。  かすかなサイレン音が銃口を揺るがせた。  むしろほっとしたように、治安官の長い顔が頭上を振り仰いだ。蒼い空の住人は雲ばかりだ。 「来やがったか。運のいい野郎だ。今度誰もいないところで会ったら、すぐ町を降りたくなるような目に遭わしてやるぜ」  頭上に目をやりつつ歩み去る治安官を、Dは見向きもしなかった。  その顔がようやく上がったのは、真上から近づきつつある羽ばたく影が、明らかに鳥のものだと認識できるようになってからである。  サイレンが途切れ途切れに間を置いて鳴り始めた。窒息する人間の呻きのようであった。  あちこちから数名の人影が|倒《こ》けつ|転《まろ》びつ住宅|区《セクター》の方へ風を切っていく。  Dは立ち上がった。  肉食鳥群の襲撃であった。元来二千メートル以上の高空を飛び、その高みに棲息する気獣や浮遊生命体を捕捉する凶暴な鳥類だが、餌が乏しくなると、地上近くまで降りて、街や人間を襲う。  大型のものは翼長二十メートル。一つ目巨人も連れ去ることができる。恐るべきは、単独ではなく、必ず数十羽単位の集団で攻撃してくることであった。  飢えた目には、この移動する街が途方もなく大きな獲物に見えるのであろう。  遠くで機関砲らしい炸裂音が響き始めた。  迫りくる影に向かって、炎の筋が吸い込まれていく。建物の屋根を、街路を、みるみる黒い幕が覆った。  Dの眼前で、猛烈な風圧に木立が反り返った。  吐き気を催すような啼き声をたてて、翼長五メートルほどの巨鳥が、Dの上に覆い被さるように舞い下りる。  短い角を思わせるくちばしには、びっしりと釘に似た歯が生え、ひっきりなしに旋風を送る翼の中ほどには、鉤爪の生えた手が見えた。  木の根にも似た三本の指が、Dを鷲掴みにしようと迫る。  銀光が一閃した。  それは確かに一つの弧を描いたとしか思えぬのに、巨鳥の翼は中ほどから切り落とされ、その喉もまた、鮮血を撒き散らしていたのである。  噴き上げる水は、たちまち赤く染まった。  落下する巨体から離れて跳びすさったDを目がけ、なおも鉤爪が伸びた。カッと骨を断つ音を残して、巨大な脚はその付け根から切断されていた。  甲高い悲鳴があがった。  Dはふり向いた。五メートルほど後方でゆっくりと上昇していく羽の下から、必死でもがく人影が見えた。ロングスカートを穿いた若い娘であった。  Dはその真下に駆け寄った。  左手が動いた。白い線が尾を引いてとび、巨鳥の喉元を貫いた。絶叫をあげて、それは羽の動きをとめ、がくりと高度を下げた。  Dの表情が動いたのは、次の瞬間だった。  周囲が一気に黒ずむや、どこに隠れていたのか、翼長二十メートルを超す大怪鳥が、娘を捕捉した巨鳥の上に舞い下り、羽の付け根に鉤爪を食い込ませて、上昇を開始したのである。  怪鳥が羽ばたいた。地上をすさまじい衝撃波が襲った。  樹木はへし折れ、噴水の水は真横に流れた。公園の周りに建つ家々の窓ガラスが、次々に消しとんでいく。  Dはコートの裾で顔を覆っていた。  怪鳥の起こす突風をもそれは虚無と変えるのか。激しく揺らぎこそすれ、飄然と立ち尽くすDの姿勢に変化はない。  怪鳥の羽がもう一度上がったとき、Dは強く大地を蹴った。  ほぼ垂直に五メートルも跳び上がる。伸ばした左手は、下に吊り下げられた巨鳥の足首を掴んだ。  必殺の一撃を急所に受け、巨鳥はすでにこと切れている。捕らえられた娘も失神していた。  左手を支点に、Dの身体は振り子のように振られた。  空中でコートが開いて風圧を調整し、Dは鮮やかに大怪鳥の背中に跳び移っていた。  怪鳥が吠えた。鳥のものではない獰猛な響きは、肉食獣のそれであった。  逆手に握った剣を、Dは頭上高く振り上げた。  怪鳥の羽が一斉に逆立った。  羽がわななき、猛烈な振動波を放射する。怪鳥の背は半透明に変わった。  細胞のひとつひとつを針が貫く痛みに襲われる。  Dはわずかに眉を寄せた。それだけだ。  一気に振り下ろす長剣は、怪鳥の延髄を正確に刺し貫いていた。  咆哮は大空を揺るがし、それがとまったとき解体がはじまった。  断末魔の振動波が内側を向いたのか、羽という羽が抜け落ち、皮膚と肉とが粘土のようにひび割れるや、怪鳥は瞬く間に数個の肉塊と化して、空中に四散したのである。  高度は地上二百メートル。Dも少女もともに宙に舞った。  肉食鳥を撃退するのに、街は二時間を要した。  戦いの痕跡は、落下した巨鳥や、風圧で屋根を飛ばされた建築物となって街中に残った。街路には鮮血が流れ、まだ熱い対空砲の|空薬莢《からやっきょう》を拾い上げた少年が悲鳴をあげた。  人々の顔は意外に明るかった。死亡者はゼロ。怪我人もほとんどいない。砕かれた窓ガラスの破片で、数名が浅い切り傷を負った程度である。  しかも、街の食糧事情は好転の兆しを見せ始めていた。  小型の肉食鳥は、その場で貨車に載せて運び去られ、斧や電気鋸を手にした男たちが街路を埋め尽くした巨大な死骸に群がる。  モーターの唸りや、肉と骨を断つ響きに交じって、街のあちこちに血臭が立ち込める。翼長十メートルの巨鳥が、原型をとどめぬまで分解されるのに三〇分とかからない。人を食う鳥は、食われるべき人々にとっても美味なのであった。  街は活気に満ちていた。  荷車に積んで運ばれる肉塊、内臓、羽毛、骨格。そのすべてが工場で化学処理を施され、あるものは保存食となって倉庫へ保管され、またあるものは肉屋へ流れて、きょうの食卓を賑わすのだった。  工場には、さまざまな技術を具えた男たちが待っている。骨から槍をつくり、内臓の腱は弓の弦となり、骨格は粉末ないしペースト状に分解されて病院へ運ばれる。鋭い牙ですら装飾品となり得るのだ。  血液もまた、晩のジュースや酒場のアルコールにわずかずつ混入されるだろう。肉食鳥の血は、一種の精力剤となることが確かめられている。  生きる目的を見つけたように騒然とする人々の間で、ひとりの婦人が娘の消失に気がついていた。娘の名を呼びながら街中を駆けめぐる狂ったような姿に、人々もようやくこの婦人のひとり娘の姿が見えないことに気がついた。  半狂乱状態の婦人をなだめながら、娘の行き先を訊くと、友人のひとりが公園だと告げた。巨鳥の爪にかかったことも十分考えられる。  何名かが通りを駆け出し、じきに止まった。  通りの向こうからやってくるのは、忌わしい美青年であった。そのかたわらに細い影がついている。  婦人がその名を呼んで駆け寄った。  抱き合って涙を流す親子に一瞥も与えず、Dは身を翻した。どこへ行こうというのか。  首筋にかかる娘の髪の毛をめくって、傷ひとつないのを確かめたとき、ようやく母親の顔から安堵の笑みがこぼれた。 「おかしな真似をされなかっただろうな」  とひとりの男が言った。 「あいつはダンピールだ」  声は口々に和した。 「助けてくれたの」  と、少女がつぶやいた。 「助けたって、何からだ?」 「空の上で……私、鳥にさらわれ……」 「馬鹿なことを! 公園の方には何も落ちなかったはずだぜ」 「でも、本当よ」  少女は虚ろな声で言った。 「空の上から落ちて。そうしたら助けてくれたの……助けてくれたのよ」  人々は若いハンターを眼で追った。  騒然たる街路に、その視線を浴びる人影は存在しなかった。 [#改ページ] 第三章 町民たち    1  夜になって雲が出た。風を伴った渦を巻く雲であった。月の光は掻き消されていた。  その日は、正確にはその晩は、街にとって異例の日であった。ふだんなら、街路は浮かれ騒ぐ人々で満たされる。  一日の労を癒すため、酒場では明かりと電子オルガンの響きが一晩じゅう絶えず、男たちは赤ら顔で議論にふける。  女たちは生活の苦労を憂え、そして子供たちは配給されたばかりの花火を片手に、狭い街路を走りまわるのだ。  今宵、すべてが絶えていた。酒場のドアにはシャッターが下り、風だけが街路を舞っている。  たまに人影が通るかと思えば、決死の形相をした治安局のボランティアたちだった。  家々は窓をかたく閉ざし、男たちは飛び道具と尖った杭を片手に、今宵は一睡もできぬはずだ。  この街は、恐らく初めて地上並みの夢魔の跳梁を認めようとしているのだった。  ラウラが眠りに落ちると、町長はすぐにDを呼んだ。 「あとはよろしく頼む」  それだけ言って、彼は出ていった。  用意された肘掛け椅子を壁につけ、Dはただ待った。  時刻は|1100N《イレブン・ナイト》。貴族の訪問が最も盛んになる時刻だった。  ベッドの少女は、安らかな寝息を立てている。  安らかと思えるその呼吸音に、Dはもうひとつの音を重ね合わせてきいていた。通常人の呼吸より、わずかながら長く、深い。呼吸の|溜《ため》を行っているかのような呼気であり吐息であった。  娘を襲った貴族が、夜の中しか生きられないものならば、十中八九、Dの存在には気づいていないはずだ。  少女を守るものが誰であろうと、貴族の技にかなうものはない。その自信は油断につながる。あらゆる吸血鬼ハンターにとって、それが貴族撲滅の最大の決め手だった。  一時間、二時間と、何事もなく過ぎた。Dも少女も、彫像と化したように動かない。  Dは眼を開いている。  |100M《ワン・モーニング》、窓の外で何かを叩くような音がした。  ラウラの目がぱっちりと開いた。  口元に邪悪な歓喜の笑みが浮かび、開いた目から赤光がにじみ出た。  自らの置かれた状況を試すように頭上を見、左右を見回す。  Dに据えられた目がぴたりと止まった。  この邪魔者め。  と、それは言っていた。  血の法悦を知ったものは、逃れんとするより、それに溺れる定めなのであった。  目を閉じた吸血鬼ハンターをどう見たか、しばらく見つめてから、ラウラは窓の外に目をやった。 「だあれ?」  と訊く。  誰もいない暗黒の空間へ——。  闇の中からかすかな笑い声がした。人間の耳には遠くきこえぬ声で、  ——入るぞ。  ——まずいわ、ハンターがいるの。  ——そのようなもの、恐るるに足らずだ。いまのおれにはおまえの父親も手を出せぬ。  ——でも、この人は違うのよ。どこか違うわ。  ——馬鹿なことを!  目の前を窓の外から黒い染みのようなものが流れ込んでくる。それはラウラの目の前の床の上で固まって、人の形をとり、やがて確実な四肢を具えた人体と化した。 〈霧状侵入〉——伝説どおりの能力を具えた吸血鬼のひとりだ。  柿色のTシャツとしわだらけのジーンズ姿は、本来の貴族たちが見たら顔をしかめたことだろう。  まだ若い、筋骨たくましい男だった。ただ、全身が微妙に歪んでいる。何かこう、子供の手に成る人体模型であるかのように……。  そいつはラウラの方を見、それからDに視線を移した。  眠っているのか、Dは顔を伏せたまま動かない。そいつの目はらんらんと輝き始めた。  赤光がDの身体を赤く染めた。  すぐに光を消し、 「これで奴は眠り続ける」  と、侵入者は言った。 「前の奴らと同じようにな。おれのことを覚えてもいまい」 「ああ、早く、早く来て……」  毛布の中で、ラウラは身もだえした。 「あなたのキスをいただけないと、私は、私は……」 「わかっている」  そいつは唇を歪めて笑った。  汚い歯並びの中でも、犬歯は特に凄まじかった。斜め前を向いている。  恍惚と目を閉じた娘の喉元へ、そいつがゆっくりと身を屈めたとき、部屋の空気は渺々と冷えていった。ある一点へ向かって……。  愕然と侵入者はふり返った。 「き、きさま……!? おれの瞳が通じなかったのか」  Dは無言で立ち上がった。  掴みかかろうとして、侵入者の動きは硬直した。蒼白い顔がさらに色を失っていく。  Dの雰囲気を感じたのだ。動けばやられる、そう思った。 「おまえのほかに仲間がいるのか? いや、その前に名を名乗ってもらおう」  Dは静かに命じた。  穏やかな中に反抗を許さぬ鉄の響きがあった。 「答えろ。おまえの名は? ひとりか」 「違う……」  と、侵入者は答えた。 「あと何人いる」 「ひとりだ」 「おまえとそいつの名は?」  侵入者は震え出した。全身を震わせて、その身を骨絡み縛りつける危機に対抗しようとはかる。 「答えずともいい。リストと照らし合わせればわかるだろう。外へ出ろ」  男はうなずいた。  ゆっくりと玄関へ通じるドアの方へ行く。Dも後を追う。  ひょいと、その裾を引くものがあった。ラウラの白い手であった。  恐らく侵入者を助けようというのではなく、反射的な行為だったのだろう。だが、Dの注意がわずかに拡散され、一瞬呪縛が解けたと見るや、男の身体は一気に輪郭を失った。  あっという間に、黒い霧のようにドアの鍵穴へ殺到し、一線となって吸い込まれていく。  Dの右手が動いた。  右肩から月輪のごとき一閃がひらめき、確かにドアの向こうへ消えたはずの侵入者の声が、断末魔の絶叫を放った。  Dの表情が動いた。素早くドアを開けて覗く。居間であった。  目の前で侵入者はのけぞっていた。その左の背から、鋭い木の先が抜けている。  男の腰から下は、なおも霧の状態を保っていた。低い呻き声とともに、両手を喉にかけた姿勢で、侵入者は倒れた。  真の姿はどうやら霧の方であったらしい。倒れた身体はすぐさま黒い色彩で覆われ、ガサリと音を立てて床にわだかまった。 「何のつもりだ?」  Dの静かな声に鬼気がこもった。 「いや、僕は、いや……」  と頭をふったのはツルギ医師であった。 「おかしな声がしたので、どうしようかと立ちすくんでいたら、いきなりこいつが……。目と目が合ったので、慌てて刺してしまったのです」  Dは無言で、床に広がる霧状の粒と、黒血のこびりついた杭を見つめた。 「どうやってここへ入った?」  と、訊く。怒りのこもるよりよほど恐ろしい声であった。 「内緒で忍び込んだんです」  と、ツルギ医師は肩から吊った布袋をたたいた。杭とハンマーがその中に仕込まれているらしい硬い音がした。 「でも、片づけましたね」 「敵は二人だそうだ」  医師の表情が変わるのも構わず、 「ひとりは消えたが、ひとりは行方がわからない。しかし、本当に今まで犠牲者が出なかったのか、全く?」  ツルギ医師はうなずいた。 「多分娘さんは正常に戻る。診てやれ」 「ええ」  と、うなずきかけた。  医師の視線は、塵と化した人体の足の部分でとまった。膝から下に数ミリの空隙があった。 「これは……。あなたが切ったのですか?」  Dは答えず、塵のかたわらにしゃがみ込んだ。  ツルギ医師がドアの向こうへ立ち去っていったのを確かめ、左手を塵の上に伸ばす。 「どうだ?」 「むずかしいのお」  嗄れ声が答えた。 「細胞の記憶が完全に抹消されておる。ただ、もう、おまえにもわかっておるじゃろうが、こやつは貴族の|下僕《しもべ》ではないぞ」  それは、自然発生的な吸血個体ということか。驚きもせず、Dはうなずいた。 「だが、貴族以外のものが貴族になれるはずがない」 「すると、つくられたんじゃな」  と、声が受けた。 「こいつは疑似吸血鬼じゃ。誰の手になるものか——」  Dは答えない。 「そういえば、二百年前、だれかがこの町に乗り込んだと言っておった。またあいつか……。  しかし、おかしいの。町長の話を聞いても、町のやつらの様子を見ても、これ以前に吸血鬼騒ぎが持ち上がったような気配はない。こやつら、二百年の歳月を置いて、急に誕生したのかの。やつがまだこの町にいるということもあるまい。どう思う?」  Dは立ち上がり、町長の部屋の方へ行く。 「もうひとりいる。おれにわかるのはそれだけだ」  ドアをノックすると、待ち構えたように町長が顔を見せた。 「どうした?」 「片づけた」 「娘は助かったのか?」 「|医師《せんせい》に訊いてくれ」  キョトンとした町長の顔が寝室の方へ向けられたとき、タイミングよく、ツルギ医師が現れた。町長の方を見て、ニンマリと笑う。  町長の肩が落ちた。長い溜め息が吐き出される。 「会ってもいいか」  Dは無言でわきへ|退《の》いた。町長の姿は寝室へ消えた。 「見事なものですね」  玄関のほうへ向かうDの背を、奇妙な響きが追った。賞賛でも、皮肉でもない。挑戦に近い口調であった。 「皆が震え上がっていたのに、あなたが来たら三分でカタがついた。ですが、心臓にとどめの杭を打ち込んだのは私です」 「そのとおりだ」  Dはふり向いた。  若い医師の顔に、不思議と激しい決意のようなものがあった。Dに対して、恐らくはだれも持ったことのない奇妙な感情だった。  すぐに町長が出てきた。満面に笑みをたたえて、 「喉の傷も消え、やすらかに眠っておる。それもこれも君のおかげだ」 「失礼ですが、とどめを刺したのは私です」  町長は、あっけにとられたように、Dとツルギ医師の顔を見比べた。 「|医師《せんせい》の言うとおりだ。私は役にも立たなかった」 「とんでもない!」  ツルギ医師は断固否定した。 「お嬢さんに指一本触れさせることもなく、忍んできた吸血鬼を部屋から追い出したのは、この方の功績です。僕はたまたまその場に居合わせたにすぎません。賞金が出るとしたら、山分けですな」 「進呈するよ」  Dは、あきれたように言った。  不思議と好もしい口調だった。あっけにとられていたのかもしれない。 「部屋へ来てくれたまえ」  と、町長はにこやかに言った。 「礼金をお渡しする。街の好きな場所にお泊めしよう。何だったら、このまま滞在してくれてもいいが」 「せざるを得ん」  歓喜と自信に満ちた雰囲気の中を、|氷柱《つらら》のような台詞が湧いた。 「もうひとりいる」 「な……」  言いかけて町長はポカンと口を開けた。 「まさか」 「いや、二人だ。奴が嘘をついたとも思えん」 「しかし——しかし、犠牲者は今のところラウラだけだぞ」  Dは医師の方を振り返った。  それだけで質問の内容がわかったのか、医師は首をふった。 「私の病院へ内緒で治療に来たものはありません」 「定期健康診断はいつやった」 「一週間前です。風邪や軽度の持病以外、おかしな患者はありませんでした。健康診断の欠席者はなし。保証します」 「娘さんが最後に襲われたのが三日前。それ以降は——?」 「それは責任を負いかねます」  大きく息を吐いて、町長はこぶしを眉間に当てた。 「何ということだ。一難去ってまた一難。この街に——外敵など侵入しようもないこの街に——汚らわしい化け物が二匹も乗り込んでいたとは」 「二匹で済めばいい」  ツルギ医師の表情は変わっていた。 「たまたまお嬢さんは発見されましたが、知らず知らずのうちに血を吸われ、すでに吸血鬼と化した犠牲者もいるかもしれません。家族が隠している場合もあります」 「そのとおりだ」  Dはうなずいた。  骨の髄まで貴族への恐怖を味わいながら、その一員と化した肉親への愛は、時により戦慄に勝る。夜ごと青ざめ、痩せ衰えていく我が子を、村から放逐されるよりはと、家の奥深く|匿《かくま》う家族たちもまた多いのだ。  一家族がそろって吸血鬼の使徒と化すような場合は、ほとんどこれである。  愛はいともたやすく死を招く。  命を懸けて守った子供の牙が、冷ややかに頸動脈へ食い込むとき、父や母の胸をかすめるのは悔悟の念か——、それとも満足か。 「ひとり倒したことは、皆に知らせぬほうがいいな」  と、町長は言った。  Dもツルギ医師もうなずいた。 「おかしな話ですが、ラウラさんは家から出してはいけません。町のものにはまだ事件は片づいていないとして——実際そうですが——私とミスターDで捜索に当たります」  Dが奇妙な表情を浮かべた。  およそ一方的な男だった。問題は、どうしても押しの強いタイプには見えないことであった。まるで、Dがいるからそうしているようだ。 「しかし——」  と町長は首をひねった。 「それは治安局の仕事だ。彼らには知らせねばなるまい」 「きょうまで何もできなかった連中が、これから何かできるとは思えぬ。すべては私に任せてもらおう。この|医師《せんせい》も説得してもらいたい」 「承知した。ツルギ|医師《せんせい》、今回の件に関しては一切口をつぐみ、身を控えていただく。これは町長としての命令だ」 「しかし——」  と、憤然と食ってかかりかけたツルギ医師は、自制した。 「わかりました。残念ですが、ミスターDと行動を共にすることは我慢いたします。では、失礼」  声高く挨拶し、たくましい両肩をそびやかして、若い医師は外の闇へ消えた。 「もうひとりか——」  町長は疲れたような声でつぶやいた。 「もうひとり——そやつが新たな犠牲者を生み出すまで、待たなければならぬとは……」  Dがつぶやいた。 「奴の顔、|医師《せんせい》は見たはずだ。特に言葉はなかったが」 「……街のものだというのか!?」  Dは答えず、 「最も新しい死者か行方不明はいつ出た?」  村長は眼を細め、 「……死者は二年前、行方不明は三、四カ月前になる。原因は不明だが、多分、酔っぱらって街から落ちたのだろう。名前と住所はリストに入れておく」  Dはうなずいた。    2  翌朝、激しい音をたてて、Dに充てがわれた宿舎のドアが叩かれた。 「開いている」  低い声が応じても、ノックの主はドアを開けようとしない。 「どうした……?」 「ちょ、町長とツルギ|医師《せんせい》から、すぐ来てくれと——。病人だ。工場|区《セクター》のA棟に来てくれ」  脅えたようにそれだけ言って、小刻みに足音が遠ざかっていった。  粗末なわらのベッドからDは無言で身を起こし、身支度を整えた。といっても、長剣を背に巻いただけである。  日はすでに高い。風のように歩むDの姿を、通りの人々が脅えたように見送った。  工場|区《セクター》は町の外れにある。  巨大な棟が三つ立ち並んだ複合ユニットだ。飛行エネルギーを除き、生活に必要なものすべてがここで生産される。いわば町の生命線である。  ドアのA棟の表示を見るまでもなく、ただならぬ気配がDを差し招いた。  かまぼこ型のドームの入口に、数名の人影が立っていた。町長、医師。銀色のロケット・ランチャーを小脇に抱えているのは、治安官だろう。  ざわつく人垣を、助手らしき男たちが、近寄らぬよう押し戻している。  Dが近づくと、人垣は自然に分かれて、一筋の道をつくった。  疲労と、驚愕と、増悪に満ちた眼差しがDを迎えた。  町長の足元に、ひとりの男が倒れ伏していた。白い防水シートをかけられている。  Dは無言で膝を折り、シートを上げた。  四十ぐらいの中年の男だった。カッと目を見開き、唇を一気に引き結んだ形相は、悲鳴も上げられぬ恐怖の瞬間を、克明に刻みつけていた。 「どうした——?」  Dが静かに訊いた。 「訊くまでもねえだろう」  と治安官が毒づいた。 「身体には一滴の血も残っちゃいねえ。おめえの仲間が吸い取っていったのさ」 「そうでもなさそうだ」  Dはツルギ医師のほうを向いた。医師はうなずいた。 「確かに身体じゅうの血液は消失しています。しかし、どこにも噛まれた跡がありません」 「探しゃあ出てくるさ」  と、治安官は言った。 「とにかく新しい犠牲者だ。このまま、こんな得体の知れねえ野郎に頼っていると、第二、第三の餌食が出る。町長、ここはそろそろおれたちの出番だろう。任しておきなって。三日間で化け物をいぶり出し、血を吸われたやつらをみんな処分してみせるぜ」  ミン町長の顔が苦悩に歪んだ。 「症状は同じだが……」  と、Dは言った。 「これは、貴族ないしその犠牲者の手に成るものではない。どうしても傷跡が見当たらん。たぶん……」  ツルギ医師もうなずいた。 「新しい病気の一種かもしれません」 「何だ? おめえら、グルっているんじゃなかろうな」  治安官が怒声を発した。 「三日間、猶予をもらおう」  とDが言った。 「その間に敵を見つけられなければ、私は町を出る」 「冗談じゃねえ——」 「よかろう!」  治安官の声を町長が切り捨てた。 「三日間、吸血鬼探しの全権をミスターDに委ねる。治安官は一切手を出さんでもらおう」  満面を朱に染めて、治安官は黙った。 「賢明な処置ですな」  そっぽを向いて、ツルギ医師が言った。 「てめえ……!」  太い指が、その肩を掴んだ。  と、その手首に重ねられたものがある。町長の腕だった。 「治安官」  凶暴さを剥き出しにした顔に、町長は諭すように言った。それだけである。治安官の顔から、興奮の朱色がみるみる引いていった。 「わかったよ。町長はあんただ。従うさ。——だがな、三日だけだぜ。その間、おれたちは一切協力をしねえ。聞き込みから調査まで、たったひとりでやるんだな。断っておくが、この町はかなりでけえぜ」  そして、彼は、助手たちを率いて立ち去った。 「さて、この死体ですが——」  と、ツルギ医師がまぶたをこすりながら言った。 「死体安置所へ置きましょうか、それとも病院へ——。私個人としては解剖してみたいのですが。家族はいませんでしたね」  町長はうなずいた。 「とりあえず病院へ運ぼう。病気という可能性も捨て切れん」  町長の命令で、二人の町民が選ばれ、担架の端を持って、すぐ先に駐車してあった救急バイクの荷台へ載せた。 「ではお先に」  激しいエンジン音を立てて若い医師が走り去ると、そこに残ったのはDと町長だけになった。  二人の周りには、強い風が吹いている。それは、光から闇へ吹き渡る風だろうか。それとも—— 「どうかな……」  町長がポツリと言った。 「わしは病気だと思う」  Dは答えない。  傷跡ひとつない人体からの血液喪失は、彼にとっても初めての経験だったのだろうか。 「よくわからんな。ツルギ|医師《せんせい》に分析を急がせることだ。場合によっては血清の早期開発が必要になるかもしれん」 「すると、やはり……」  町長の額を脂汗が伝わった。  窓から差し込む日差しの中で、少女はこれからの運命のことを考えていた。  声も出せず、耳も聞こえない。——ツルギ医師から明確に言い渡された事実であった。奈落へ落ちる思いだった。  あらゆる音が途絶え、ペンを持たねば何も伝えられない世界で、ひとりで生きなければならない。放射能障害の痕跡は残らないと慰めてはくれたが、それが何になるのだろう。  自分は何歳なのか。——少女は数え直してみた。  十七歳——  これからの歳であった。  すべてが消滅した。  初めてそれをきかされたとき、何も考えず、死のうかと思った。  そこへ“彼”が来た。  自分を救ってくれたという美しい顔が脳裏を占めていた。  美し過ぎてすべてが曖昧であった。  この人が救ってくれた——  少女はその想いに|縋《すが》りついた。  もう一度、もう一度逢いに来てください——  少女のかたわらを幾つかの物音が過ぎ去っていった。  廊下を渡る医師と看護婦の足音。死体らしき身体を運ぶ床の軋み。おぞましげな声。  薄い壁を通して発電機やカッターの音が響き、少女の髪を揺する。  何もきこえないのは、至福と言うべきだったかもしれない。  これからどうなるのか——  少女はそれだけを考え続けていた。  いつの間にか窓の光は蒼みを帯びていた。  医師と看護婦が隣室にいるかどうかはわからない。光が消えれば、彼らとは永劫の距離で隔てられてしまうのであった。  ふと、目の前のドアに人影が映った。  と見る間に、ガラスの一点に黒い染みみたいなものが浮かび上がり、やがて高速度回転で見る花びらのように、四方へ広がっていった。  それは少女の目の前で、みるみる黒い塊らしきものになり、その輪郭をおぼろにかすめながら、ベッドの方に近寄ってきた。  少女は思わず後ずさりした。緊急ボタンを押そうとして、それはひょいと伸びた黒い手に奪い取られた。 『どうだ、おれの言うことがわかるか?』  頭の中に鋭い思考が忍び寄った。  少女は目をみはった。 『そう驚くな。テレパシーというやつだ。声に出さなくても、考えれば意思の疎通ができる。声のない女でもな。こうなりたくないか?』  少女はうなずいた。何かの運動でもするような激しいうなずき方だった。 『教えてやってもいい。ただし、おれにも訊きたいことがある。答えてくれるか?』  少女はうなずいた。不気味な黒い塊を見つめる目は、縋るようであった。 『おまえの家はある研究をしていたはずだ』  声は、快い刺激を伴って頭の中に響いた。 『その秘密は、あの家のどこかに隠されている。その場所を教えろ。——いや、口に出さなくてもいい。考えろ』  少女は眼を閉じた。過去の生活を凝集し、父の行っていた実験の具体例を探査し始めた。  収穫はなかった。  少女はそれを告げた。 『そんなはずはない』  影の思考は焔のようだった。 『おまえの父は禁断の実験にふけっていた。そして、おまえの父だけが成功させたのだ。答えろ! 思い出せ』  質問は溶けた鋼のように、少女の脳を焼いた。  全身をわななかせ、少女はベッドに倒れた。  そのとき、ドアが開いた。影はふり向いたようであった。 「何だ、貴様……!」  ツルギ医師の烈火のごとき声が走った。  影は、音もなく医師の方へ向かった。  若いせいで無鉄砲なのか、両腕を広げた医師は、それを抱きかかえようとした。  手は、影の身体にめり込んだ。いや、影が医師の身体を通り抜けたのである。|分子浸透《モレ・インター》のしわざであった。 「君——」  訳もわからず、医師はローリイの方へ駆け寄った。 「大丈夫か」  と、訊く。  何とか唇の動きを読んで、ローリイはうなずいた。  自分の手足が蒼い燐光を放っているのに気づき、医師はハッと飛びのいた。|分子浸透《モレ・インター》の後遺症である。 「私も除去剤を飲まんといかんな」  ぼんやりと言う医師にほほ笑みかけるかわりに、ローリイの頭の中であの影の思考がはっきりと明滅していた。 「おまえにもテレパシーが使える」  と影は言ったのだった。  亡くなった町民の身体は、墓地に埋められることになった。  解剖の結果、急速な血液流出による失血死——これしかわからない。頭髪の間から足の指先まで調べたが、少々のすり傷以外、おぞましい痕跡は皆無だった。  男の死体の入った|棺《ひつぎ》を墓地へと運びながら、だれもがひとつのことを考えていた。——日が暮れたら、目を覚ますさ。  葬儀係が中古のロボットを使って、穴掘りは終えており、死体はその内側に埋葬された。土がかけられ、牧師兼務の葬儀係が祈りの言葉を唱えた。  これで、男のことは過去の一隅にはめ込まれてしまうのだった。  やがて日が落ちた。人っ子ひとりいない野辺を、三十近いひとりの女が早足でやってきた。雑貨屋の女房だった。  だが、歩き方がおかしい。まるで何かに誘われるように、そして、それを嫌がるように、歩きながら彼女はのけぞり、引っ張られ、後ずさりしていた。  ほどなく女は、新墓の前に立った。盛り上がった土に、呻くように頬をこすりつけ、立ち上がる。身を屈め、女は脅えたような表情で、しかし、何とも薄ら寒い笑みを浮かべながら、新墓を掘り始めた。  手を動かすたびに、大量の土が背後に投ぜられた。みるみる山をつくっていく。埋めたばかりの土だから、軟らかいのだろう。しかし、これは異常な量であった。  穴の底に木箱の表面が見えたとき、女の唇は歓喜の形に歪んだ。何とも|邪《よこしま》な、黒い笑いだった。  深さは三メートル。女は黙って見つめている。日はすでに平原の果てに沈んだ。彼女の行為を照らすのは、白い常夜灯ばかりだ。  ゆっくりと棺が上昇し始めた。土にでも押し上げられているかのように、揺るぎなく、確実に、女を目がけて上がってくる。女の表情に不安と恍惚が交錯した。  棺は穴からさえも離れ、女の顎の位置で停止した。何の支えもなく宙に浮いている不可思議を、しかし、女は不思議とも思わなかった。  箱の蓋は内側から開いた。青白い手が押し開けたのであった。上昇速度と同じくらいゆっくり、死んだはずの男が上半身を起こした。下半身を棺におさめたまま、男はニッと女のほうを向いた。白い犬歯が突き出ている。  その目は赤光を放ち、このとき、女はすべての自由を失った。  女はほほ笑み返した。男は妙にギクシャクした動きで、地上に降り立った。棺は停止したまま動かない。  男が近寄ってきた。女は黙って待った。初めて女は、この男が生前自分を愛していたことを知った。  ビュッと音をたてて、そのとき、男の首筋を貫いたものがある。細い白木の針であった。 「残念だが、そこまでだ」  男の右横で木の枝が鳴り、低い声が言った。男は口もきけなかった。 「そうして甦ったならば、おまえをそんな目に遭わせた犯人の顔を知っているだろう。答えろ」  答えたくても、男は喉を貫かれていた。喉に針を刺したまま、男は二メートルも後方に跳びすさり、同時に、女はその場にくずおれた。 「おまえは滅びねばならん」  Dは冷たく言った。 「だが、その前に昼の世界へ遺書を遺すがいい。どうだ?」  男の右手が針の端に伸びた。Dの放った針を男はあっさりと引き抜いていた。ピューと血の線が延びる。男の唇が尖った。  Dが左手を上げた。手刀のような形で前へ出す。男の口から迸った赤い線は、その端で左右に分断され、闇の奥に消えた。  血の降りかかった大地が白煙を噴き上げるのを、Dは気配で感じた。 「変わった力を持っているな。だが、これで終わりだ」  二度と唇を尖らす隙を与えず、Dのコートが男の全身を覆った。それが離れると同時に、糸にでも引かれるように、男は大地に昏倒した。 「片づいたぞ。出てこい」  男を見下ろし、Dは静かに言った。 「——それはどうも」  五、六メートル離れた茂みの中から、枝を揺する音がして、弾力性たっぷりの身体が現れた。 「貴族の下働きを一発で昏倒させる技か。暇があったら教えてくれ。ケケケケ」  と笑うのは、疑いもなくジョン・M・ブラッサリー・プルート八世だった。 「なぜこんなところにいる?」 「それはないぜ、相棒」  プルート八世は、年来の友人といった表情でほほ笑みかけた。 「どうせ生き返るだろうと思って、ここで待っていたのよ。いや、あんな化け物相手に、よく頑張ったものだ。感心感心」 「何が目的だ?」  Dは静かに訊いた。 「なーんにも」  プルート八世はひたすら首をふった。言語を絶する拷問にかけられても、死ぬまでこれで通すだろう。 「何でもいいが、邪魔をするな」 「はいはい」  何を考えているのか、パチパチと拍手をして、 「ところで、おめえ、こいつを連れて帰って、口を割らせる気か」 「何のことだ」 「決まってらあな。だれがこいつをこんな目に遭わしたか、調べさせる気だろう。何せおまえ、血だけはなくなるのに、傷ひとつねえんだ。気味が悪いったらありゃしねえ。原因は究明すべきだよ」 「仰せのとおりだ」  牙を剥き出した男と、失神した女を軽々と両肩に担ぎ、Dは背を向けた。 「おい、ちょっと待て、ちょっと待て」  プルート八世があわてて追いかける。 「そのオバンは、おれがだっこしていってやる。いやあ、この町の女どもは変に身持ちが堅くってな。いくら口説いても相手にしてくれん。こういうときこそ既成事実をつくっておくべきだ」  あきれたのかどうか、黙って突っ立っているDから、半ば強引に女の身体を奪い取り、プルート八世は両腕に抱きかかえた。 「ところで、おめえ、こいつが素直に口を割ると思うか。何つったって、吸血鬼だぜ」 「———」 「いいことを教えてやるよ。おれがみーんなしゃべらせてやる。訊きたいことを訊き出してやるから、おれにも質問させてくれ」  Dの足が止まった。ゆっくりとふり向くその顔に何を感じたのか、 「おおーっと」  言いざま、プルート八世は三メートルも後ろへ跳びすさっていた。 「そんなマジな顔で見るなって。おめえの顔を思い出しただけで、マスがかきたくなるんだ。そのうち、愛してるってことにもなりかねねえ」 「何をたくらんでいる」 「なーんにも」 「町長に言って、ここから降りるか」 「ケッケッケッ、無駄無駄無駄。そんなこともあろうかと思って、新しい隠れ家を見つけてあるんだ。おめえ、吸血鬼の棲家だって見つからねえんだ。もうひとり増えたって、おかしなことはねえ」  それはプルートの言葉どおりだった。 「なあ、どうする? そんな怖い顔しねえで、早く決めてくれよ」 「わかった」  Dは静かにうなずいた。  プルート八世がDを導いたところは、工場|区《セクター》C棟の隣にある放棄された宿舎だった。 「どうだ、すげえだろ。部屋は三つあってな。どこでも煮炊きができるようになっているのよ。おじさまは大邸宅の主だぜ」  プルート八世は鼻高々と言った。 「だが、ほかのやつにばらしても構やしねえ。五分もあれば別のアジトへ引っ越してみせるからな。おれは吸血鬼以上に神出鬼没なんだ」 「本音はなんだ?」  Dが訊いた。 「私は誰でしょう——」  と、プルート八世は言って、プラスチックの椅子に腰を下ろした。  Dにも勧めるが、座らない。  雑貨屋の女房は、人通りの多い街路の、すぐ目につく場所に横たえておいた。吸血鬼の力に導かれたものは、その身に起こったことを何ひとつ覚えていまい。  大きな簡易ベッドの上に、プルート八世は失神した吸血鬼を載せた。薄気味悪そうに、伸びた犬歯に触れ、 「ほんじゃ、まあ、二、三質問に答えていただくとするか。いいか、ようく見てろよ」  そう言うと、彼はベッドによじ登り、奥の方へ追いやった吸血鬼の隣に、べったりと仰向けに転がったのである。  吸血鬼の手を握り締めるのを、Dは見た。  プルート八世が目を閉じた。  ——と、あらゆる表情が消えた。同時に、吸血鬼の全身がわななき、彼は目を見開いた。 「どうだい」  と、吸血鬼はプルート八世の声で言った。——いや、いかにも農夫農夫したその顔、その表情は、どことなく丸みを帯び、目つきや口元には、明らかにプルート八世の面影さえあった。  このチンケな小男は、実に|憑依《ひょうい》能力を有していたのである。 「うー、寒い寒い。こいつは、身体の中も頭の中も、氷の王国だぜ。そのかわり、考えていることは、みんなわからあ。——こいつによるとだな、吸血鬼にした野郎は、ほお、無しだ。あの工場の前で、突然寒くなって倒れ、それっきりだったらしいぜ。全くえらいこった」 「病は伝染性か」  Dの問いに、 「わからん。わかるのは、えらく血が吸いたい。それだけよ」  急にプルート八世の声がくぐもった。  人の好さそうな顔に鬼気が流れる。悪鬼の形相と化して彼は跳ね起きた。——憑依した人間が、あっさりと逆憑依されてしまったのだ。疑似吸血鬼とはいえ、その血を受け継いだものの精神力は、これほど強い。  ゆっくりとDの方に近づこうとした——  そして、プルート八世は突如相好を崩した。 「ハハ、悪い悪い。おどかすつもりだったんだが、びくともしない。さすがDだぜ。質問はそれだけか——?」 「もうひとつある。あの家では、一体何を研究していたのだ」 「わからん」  プルート八世はあっさり言った。 「知識としてはあるのかもしれんが、そのことに関しては、霧が渦を巻いている。無回答ですな」 「………」 「目論見はご破算だな」  Dは小さくうなずいた。  血を吸うものと、吸われるものとの間に存在する特異現象のひとつに、記憶伝播がある。吸血したものの記憶が犠牲者の脳内に移るのだ。  ほとんどは一部分にとどまるが、中には、貴族とまったく同一の記憶を持つ犠牲者も誕生する。  プルート八世は、その体内に精神のみを侵入させることにより、この男の主人たるものの記憶を読み取ろうとしているのだった。  Dは無言で男の死体を肩に担いだ。 「おい、何をする」  と、死体——プルート八世は喚いた。 「用が済んだら、墓へ戻さねばならん。出たければ、早く出ろ」 「なんて|手前《てめえ》勝手な野郎だ!」  毒づくなり、男の身体からこわばりが抜けた。  と同時に、ベッドの上に横たわっていたプルート八世の身体が起き上がった。 「身体から身体に移るには、それなりの心づもりが要るんだ。ああ、気分が悪い——」  Dは音もなく宿舎を抜けた。  街は、茶色の平野を睥睨するように進んでいた。  地上にいる羊飼いや商人たちの一行が、羨ましそうに見上げては手をふった。  それらにも応答することなく、街はひたすら前進を続けた。  ——いや、それは果たして前進であったろうか。  妙に毒々しい色に輝く太陽に向かって、街はひたすら進んでいく。  翌日、Dは町長のメモにあった、ナイト家を封じ込める作業に携わった二十人の男たちを訪問した。  回答はすべて同じだった。引っ越し当時、あの家でおかしなものを見たものもきいたものもいない。  あの家の謎は、なおも霧に閉ざされていた。  最後のひとり、ハットン治安官のもとを訪れようとしたとき、Dの背後から、彼の名を呼ぶ声がした。ツルギ医師であった。 「どうだった」  ふり向いて、Dは訊いた。 「状況は同じです。僕には、あの死体から何も発見できません」  昨夜、墓地から甦った男のことである。プルート八世が抜け出した身体を、Dは医師のもとに運び、再度診察を依頼したのだった。 「確かに何らかのビールス感染によるものだとは思いますが、現状では、その尻尾もつかまえられません」 「つかまえてもらわねば困る」  Dはそれだけ言った。  その後に続くべき言葉の意味を悟り、ツルギ医師は、いつの間にかにじんでいた汗を、手の甲で拭った。冷たい汗であった。 「また会おう」  と、背を向けるDへ、 「待ってください」  と、彼はもう一度呼んだ。 「どうかしたのか」  それが癖なのか、若い医師はすぐに頭をかいた。 「よかったら、見舞いに行ってやってくれませんか? いえ、ローリイ・ナイトのことです。どうも様子がおかしい」 「おかしい?」 「そうです。きのう、奇怪な影に襲われてから、様子が変なんです」 「おれが行っても、何にもなるまい」 「あなたが来てくれなくては、それこそどうにもなりません」 「では、ひとつ用事を片づけるまで、待ってもらおう」  そう言って、Dはまた歩き出した。  路地を幾つか曲がると、治安局に出た。ひび割れを強化テープで止めたガラスドアを押して、中へ入る。奥まったデスクの向こうで、足を投げ出し、数人の助手と談笑していた巨漢の顔が、Dを見るなり急に引きつった。 「何の用だ! 期限がまだ二日あるのに、もう降参かい」 「おまえに用がある——」  Dはにべもなく言った。 「人払いを願おうか」  その冷然たる鬼気に打たれたか、慌てて立ち上がった二人の助手を、治安官のグローブのような手が押しとどめた。 「よせよせ、ここは治安局だ。外の野郎に指図は受けねえ。それも薄汚ねえ|吸血鬼《バンパイア》ハンターにはな。どこへも行くことはねえ。一緒に話をきいてもらおうじゃねえか。ええ、どうだい?」  最後の一言は、Dに向けられたものであった。  Dはうなずいた。 「おれは構わん。ひとつだけ訊く。ナイト家を封鎖したとき、何か見なかったか」 「何かとは何でえ?」  治安官は、歯を剥き出して笑った。黄色い歯であった。 「変わった品物はなかったか。変わった薬や、方程式のメモはなかったか。特殊な生物は?——それだけだ」  治安官は鼻を鳴らした。 「何にもありゃしねえよ」 「では、もうひとつ。ナイト家は、なぜ町を捨てた?」 「そんなこたあ、町長に訊けよ」 「皆で追い出したのか、それとも——」 「なんだ?」 「喜んで出ていったのか。どっちだ」 「てめえ、難くせをつけに来たのか!」  二人の助手が身構え、治安官は特別でかい椅子から立ち上がろうとした。  数センチ腰を浮かしかけ、治安官の動きは硬直した。  目の前にDが立っていた。たったそれだけで——まさにたったそれだけで、彼ばかりか二人の助手までも、身動きひとつできなくなったのである。  若き吸血鬼ハンターの全身から放たれる鬼気のせいであった。 「素直に答えろ」  Dが言った。 「ふ、ふざけるな!」  凄む治安官の声も震えている。 「では、やむを得ん」  Dの左手が上がり、治安官の額を押さえた。  ——白痴のような無表情が、治安官の顔に広がった。目に半透明の|紗《しゃ》がかかり、口の端からよだれを流しながら、治安官は虚ろな目を宙空に据えた。 「あの一家は何で街を出た?」  答えはすぐにやってこなかった。治安官の耳の中で、彼の自我と、Dの言葉が反芻されているに違いない。結果はどう出るか——。 「あの一家は……おかしな実験を……していたんだ……詳しい内容は……おれにも……わからねえ」  治安官の言葉は、明らかに強制されているものであった。  言うまでもない。Dの左手の魔力である。 「それを知っていて、おまえは何もしなかったのか」 「しようと……思ったが……町長に……止められた」 「町長に?」  Dの目が光った。 「なぜだ——」 「わからねえ……あの一家には……一切……構うなと……お達しが……出ていたんだ……おれの前の治安官も……そうだったらしい」 「いつからだ——」 「ざ……ざっと……二百年……前から……」  それは町長の言う、奇怪な人物が街に乗り込んだときではなかったか——。 「その奇妙な実験というのは、それ以前から続いていたのか」 「おれには……わからん……」 「ナイト家は追い出されたのか、自分から町を捨てたのか」 「自分から……逃げた……」 「逃げた?」 「やつらが逃げる……前の晩……町長の命令が出て……おれは家へ行った……ナイト夫婦がいたよ……町長の命令どおり……おれはその場で彼らを捕らえ……留置場へ……ぶち込んだんだ……もちろん……あの娘も一緒さ……なぜ……そんなことをするのか……町長も話してくれなかった……ただ……街全体に対する……重大な……犯罪行為……と教えられた……だけだ」 「なるほど」  それはナイト家が代々行ってきたという実験のことだろうか。  だが——常にそれを擁護してきた町長が、彼らを捕らえろと命じた理由は?  また、彼らは町長に何を伝えようとしたのか。 「ナイト夫婦の様子はどうだった」 「わ、わからねえ……びくついちゃあ……いなかった……夫婦……そろって……深刻そうに……何か……考えていたがよ……お、おれには……そこまで……わからねえ」 「どうやって逃げた?」 「次の日に……なって……みると……壁が……溶けていたんだ。ナイトは化学者だ……どっかに溶解剤でも……隠しておいたんだろう……」 「いずれまた会おう——」  Dの手が離れた。  消耗し切ったような治安官と二人の助手がドッと椅子に倒れ込んだのは、黒いコートの裾がドアの外へ遠ざかってからであった。  ツルギ医師が待っていた。 「お忙しいでしょうが、ぜひご一緒に」  Dはうなずいた。 「約束だった。行こう——」  二人は病院へと歩き出した。 「静かな街だな」  と、Dが言った。 「そうですね。治安官や町長には治めやすい街でしょう。外部からおかしなやつは来ない。町民は皆柔順で、規則をよく守る優等生ばかりです。たまに荒っぽいのが出てきても、治安官以上のはいませんからね」  Dの口元に微笑が浮かんだ。 「君以外はな」  ツルギ医師はにっこり笑っただけで、何も言わなかった。すぐにDのほうを見つめ、 「いつまでこの町にいるんです?」 「仕事が終われば、明日にでも出ていく」  それから、このハンターには珍しく、 「君は?」  と訊いた。 「契約期間は一年なんです。その前に、降りることになるでしょう」 「医者に降りられたら、困るだろう——」 「また別の医者を探せば済むことです」 「退屈か——?」 「とんでもない。これでも心理学をかじっていましてね。その見地からすれば、これほど興味深いところもありません。辺境の町は、その性質上、外敵から身を守るために、強固な管理体制をしいているものですが、ここはその頂点のひとつです。この町がどこへ行くとお思いですか」 「………」 「彼らは何の目的もなく、世界の果てから果てまで漂っていくのですよ」 「目的がないのは、地上でも同じだ。人間も、貴族も、宇宙の万象がそうなのかもしれん」 「しかし、村には入ってくるものがいる。街には出ていくものがいる。ここでは、そのどちらもないのですよ。近親相姦の悪影響を排除する薬品開発に、どれほどのエネルギーが費やされているか、ご存じですか。僕に言わせれば、この町の住人で正しいのは、あのナイト家の人たちだけですよ」 「彼らについて、君は何も知らんのか」 「残念ながら——」 「君には向かん場所かもしれんな。旅が好きなのかね」  若い医師はうなずいた。  大きなうなずき方だった。黒い目がかがやいていた。 「ええ、いろいろな人に会いました。旅が好きで医者になったようなものです。辺境も、そう捨てたもんじゃないですよ。それがどんな世界だろうと、みんな懸命に生きている。たぶん生き残りの貴族でさえも——。僕はその助けになりたいのです」  Dは黙って歩み続けた。  その眼差しにぬくもりのようなものが宿っているではないか。  自分の言葉が奇蹟を起こしたことに、若い医師は気づいていなかった。 「ダンピール——でしたね。旅はもう長いのですか」 「君よりは少し」 「僕もじき同じになります」  と、医師は強い口調で言った。 「あなたと同じくらい、経験を積めるでしょう。馬や長剣の扱いも、そのうち覚えます」  挑みかかるような響きにも、Dは無言だった。  じき二人は病院に着いた。  看護婦が先に立ち、病室まで案内した。わずか数メートル行く間、看護婦はテーブルにぶつかりそうになり、ガラスに手を突っ込みかかり、敷居につまずいて、医師に抱きとめられた。Dの方ばかり見ていたせいである。  ローリイの肌には、ピンクの染みがうっすらと残っていた。それだけである。放射性同位元素除去剤はすでに必要なくなったものか、一枚残らず撤去され、少女はブルーのパジャマを着て、ベッドに上半身を起こしていた。  少しして、ツルギ医師がメモを手にとり、 『具合はどうだね?』  と書いて渡した。Dが何も言わないからである。  それに目を通し、ローリイはうなずいた。もじもじとパジャマの襟を合わせ、袖を引いた。放射能障害の痕を見られるのが恥ずかしいのだろう。 『Dさんが来てくれた』  と、医師はメモに書き記した。 『早く元気にならないとね』  Dがペンをとった。メモに書いた内容を見て、ツルギ医師が目を丸くした。 『ご両親はなぜ町を出た?』 「待ってください!」  と、医師は食ってかかった。 「この子はまだ治りきっていない病人ですよ。そんなことをさせるために、あなたを呼んだんじゃない。元気づけてほしかったからです。病人には励ましが何よりも効く。とくにこの年頃の子はそうです」 「おれは質問があるから来た」 「なんてこった。連れて来るんじゃなかった」 「励ますのはいつでもできる。だが、この仕事には時間がない」  医師は口をつぐんだ。Dは続けた。 「原因不明のまま、貴族の仲間がひとりできた。それが百人にふえても、我々には手が打てないということだ。彼を片づけるのはおれの仕事だとしよう。だが、街中の人間をそうするのは、少々荷が重い」 「そんな無茶な——」  医師は嘆息した。  Dはローリイに向き直った。黙って回答を待つ。  ローリイの胸の中で、記憶が揺らめいた。昨夜の影の質問であった。  誰も彼女のことを気にしてはいなかった。両親の実験だけに心を砕いている。  喉元にまで込み上げた怒りをたたきつけようとして、ローリイは顔を上げた。  美貌が目の前にあった。冷たく、鬼気の漂う、それでいてもの哀しげな美貌であった。ローリイの胸から怒りが消えていった。  右手の甲の傷痕が見えないように左手で押さえ、ローリイはゆっくりとペンを走らせた。 『わかりません。ただ、前の晩、実験室の前を通りかかったとき、父が母に、これで世界が変わると話していたのを聞きました。それからすぐ、二人そろってどっかへ出ていき、私が寝ていると、治安官が来て留置場へ連れていったのです』 「どうやって変わる[#「変わる」に傍点]んでしょうね」  ツルギ医師は言った。  Dは無言で後ろを向いた。  隣室へ——。手術室のほうへ——。台に縛られた死体へと——。  医師の顔が粘土色に変わった。 「まさか——」 「わからん——出ていたまえ」 「はあ?」 「君は知らんほうがいい」 「冗談じゃない! ここまできて——。断っておきますが、昨夜の吸血鬼を倒したのは僕ですよ」 「また会おう」 「しかし——」  言いかけて、医師は口をつぐんだ。半ば憤然と、彼は病室を出ていった。  Dの右手が動いた。 『君の家族以外で、実験室に最も多くやってきたのはだれだ』  少しためらい、ローリイはこう記した。 『町長』 [#改ページ] 第四章 光る蛇の谷間    1  Dが病院を訪れる少し前のことである。  町長家の女中ネルは、町議会館へ出かけた主人の留守を狙い、裏庭へ忍び出た。あたりに人気がないのを確かめ、 「ベン!」  と呼ぶ。  クリーニング店で働くたくましい恋人は、返事をしなかった。  |訝《いぶか》しそうに眉を寄せながら、ネルは逢い引きの場所である太い桃の木の根元に近づいた。 「ばあ」  いきなり、木の陰からベンが顔を出した。 「やだ、驚かさないで!」  安堵の胸を撫でおろしながらも、妙な違和感がネルを捉えた。  いつものベンと違う。顔つきも体格も、確かにベンそのものなのに、何かおかしい。いやに、ニヤついているではないか。 「どうしたんだよ、ネル。おれの顔に何かついてるのかあ……?」  声もベンのものであった。  ネルは首をふった。 「ううん——」 「そうかい。じゃあ、キスしてくれよ」  と言った途端、暴れる間もなく、ネルは抱きすくめられ、唇を重ねられていた。  二人が一本の棒のようになったかたい抱擁は数秒間続き、やがてベンの全身から力が抜けた。あっけなく、へなへなと木の根元にくずおれてしまう。  突如人事不省に陥った恋人のほうを見ようともせず、ネルは周囲を見回した。色っぽい表情はそのままだが、どことなく顔つきがおかしい。 「この若いのが、町長家の裏庭へ入っていくから、もしやと思って来てみれば、案の定だ。給料をもらってやがるくせにとんでもねえ野郎だ、と言いたいところだが、おれの仕事をやりやすくしてくれたことだし、ここはまあ大目に見ておこう。こいつもしばらく目を覚まさねえし——|姐《ねえ》ちゃん、おめえの身体を借りるぜ」  そして、へたり込んだ恋人を茂みに引きずり込んで隠し、ネルはいつものつんと澄ました表情を取り戻すと、軽やかな足取りで家に戻っていった。  家に入ると、ネルはすぐドアというドアに鍵をかけ、居間の真ん中で何かを考えるような読み取るような思慮深い顔つきをしていたが、すぐに目を開けてうなずいた。 「なあるほど、もう一匹いるのか。しかも、娘がまだ治っていないということにして、それを隠し通すなんざあ……ははん、Dの作戦だな」  ネルの声で話す口調は、疑いもなくプルート八世のものであった。  ネルの恋人に憑依し、さらに彼を介してネルにまでとびつき、その記憶を読み込んで、彼は何をしようというのか……。 「この家に別段おかしなことはねえ——と。ん! 待てよ、無断で地下室へ行くなと言われている?——ははあ——。それでは無断で覗いてみましょう」  にやりと笑って、ネルは寝室にこもったラウラに気づかれぬよう足音を忍ばせて、地下室のドアに近づいた。  鍵はかかっていない。扉を押すと、暗黒の中へ木の階段が続いていた。 「おお、こわ!」  おもしろそうにつぶやき、ネルはロングスカートの裾を持ち上げて、ゆっくりと闇の中へ足を踏み入れた。  工場|区《セクター》から配送される送電管や湯送管が、天井を縦横に走っている。  木箱やら石油缶が四隅を埋めた地下室の真ん中で、ネルは疑い深げな視線を周囲にふり撒いた。 「あ、ここは異状なし」  と。 「さて、ネルちゃんの疑惑の的はどこにある……?」  異様な光を帯びた眼が、壁、床の上、天井を次々と這い、やがて自分の足元でとまった。 「うむ、わからねえ」  と、伝法につぶやき、ネルは腕組みをして考え込んだ。 「どう見ても、ただの地下室ですね」  やがて、もう一度、今度はもっと粘っこい光をたたえて、目が四方を這いまわる。 「地下室のどこかに何か隠してあるとしたら、だれにもわからねえところにスイッチをつけるか」  こう言って、ネルは空き箱の並んだ一隅に近づいた。 「いいや、おれなら逆に考える。落ち葉を隠すにゃ森の中。人目につかねえスイッチは、誰の目にもつくとこさ」  スカートの裾を翻して、ネルは壁上の配電盤に近づいた。 「ネルちゃんの記憶じゃ、奇妙な話し声と歯車の噛み合うような音がするそうだ。となると——」  鋭い目が十近く並んだレバーを眺めた。 「中でも一番汚れの少ねえやつ、こいつか……」  真ん中の一本を掴んで、ネルは右へ回転させた。  鈍い音を立て、記憶にあるとおり、歯車の噛み合うような音がどこかでした。 「うわっ!」  悲鳴と同時に、ネルの身体は一回転した。  正確には、一回転分転がって、もとの位置にポッカリと丸い穴があいたのである。  地下室の闇よりなお暗い暗黒の底へ、木製の|梯子《はしご》が伝わっている。 「こいつか、ネルちゃんの疑惑のもとは。今おじさんが解いてあげるよ、ケケケケ」  らんらんと目を光らせ、ネルは梯子に近づいた。周りに誰もいないのを確かめ、新しい地下室へと降りていく。  梯子は頑丈だったが、足かけ部分の減りぐあいは、もう何十年も前からだれかが頻繁に使用していることを物語っていた。五十段ほど下って、下へ着いた。 「ええと、スイッチ、スイッチ——」  闇を探る手がすぐ壁に触れた。  小さなスイッチを見つけて押す。暗黒の中に弱々しい光が満ちた。  そこは、街の一角のすべてを占めるのではないかと思われるほどの広大な空間であった。  その真ん中にただひとつ、見間違えようのない箱が置かれていた。表面には何の装飾もないが、|棺《ひつぎ》だ。 「まだ、朝だよな」  ポツリと不安げにつぶやき、ネルは棺の方へ歩き出した。 「しかし、まあ、町長ともあろうものの家で、こんな化け物を飼っているなんてよ」  ちゅうちょなく棺の蓋に手をかけたとき、誰かがネルの頭髪を掴んだ。 「キャーッ!」  悲鳴をあげる暇もなく、ネルの首は一文字に引き裂かれていた。  どっと鮮血が床に広がる。  実にこの瞬間、街の片隅で奇妙な出来事が発生していた。  少し前、大工のひとりが、森の中で眠っている小太りの男を発見したのである。  いや、まず脈をとったからこそ、眠っていると判断したのだが、数人の町民や治安局の連中がやってくるころには、印象は死体に変わっていた。心臓だけは動きながら、男は呼吸もしていなかったのである。  それが美しい吸血鬼ハンターと同行してきた他所者の身体だと知って、ざわめきが人々を包んだ。 「なぜこんな——」 「自殺だよ。この街に受け入れられなかった腹いせだ」 「だがよお、おれ酒場でこいつのやり合うのを見たが、自殺するようなタマじゃなかったぜ」 「心臓は動いているのに、息をしてねえってえのは、これは何になるんだ?」 「そうさなあ——」  と、治安局のひとりが言った。 「どうせなら、安らかにしてやろうじゃねえか」 「そうそう」と、町民のひとりがうなずいた。 「厄介払いだ。やっちまえ!」 「ほいほい」  治安局の連中も文句なく賛成し、一人が腰のホルダーから大型の自動拳銃を抜いて、プルート八世の頭へポイントした。  周囲の連中が慌てて遠ざかる。  今まさに引き金を引こうとしたとき、息をせぬ男の身体はスイッと跳ね上がったのである。  わっと叫んで、治安局員がのけぞるところを、 「馬鹿野郎! 見せ物じゃねえぞ!」  凄まじい怒声が飛んだ。  あまりのことに、なお遠巻きにしたまま近寄らない街の連中を軽蔑したように見回し、 「けっ、ふざけた野郎だ。てめえらの代表がとんでもねえものを飼ってるとも知らず、行き倒れを撃ち殺すのを見物しているとはよ」  言うまでもなく、憑依したネルが即死した瞬間、もとの身体に戻ったプルート八世であった。  Dが病院を出たのは、ローリイが町長の名を紙に|認《したた》めてすぐだった。  もう少し話をしてやってくれと、ツルギ医師は要求したが、用が先だと、Dは応じなかった。  ドアの外へ出たDを、三つの影が取り囲んだ。  ハットン治安官と二人の助手——さっき治安局で出会ったメンバーである。全員がガンベルトを巻いていた。 「やはりここにいやがったか」  ロケット・ランチャーを片手に、治安官が牙を剥き出した。  あとの二人も、手に手に散弾銃を構えている。Dの心臓へその銃口をポイントしているのを見て、 「何か用か」  Dの声は気怠げであった。  陽光を全身に浴びている。半ば貴族の血を引くダンピールにとって、闘争には最も不向きな時であった。 「何の用だあ? 飲み屋の誘いとでも思ったのかよ」  助手のひとりが言った。 「他所者のくせになめやがって——。ダンピールかなにか知らねえが、調子に乗るんじゃねえ。この街で治安官を脅したら、どんな目に遭うか、ゆっくりと思い知らせてやるぜ」 「期限は明日いっぱいだ。それまで待ったらどうだ」 「冗談じゃねえ。おめえみてえな野郎にトラブルを片づけられちゃ、おれたちの存在価値が危うくなっちまわあ」  ハットン治安官の目は、焔を噴いていた。  ロケット・ランチャーの|発射選択装置《セレクター》は、|一斉発射《フル・ショット》。トリガーボタンを押せば、七発のペンシルミサイルが、美しきハンターを原型をとどめぬまでに爆砕する。  戦いは避けられぬと見たか、 「ここでやるか」  と、Dは静かに訊いた。 「こいつはいい。逃げねえとは大したもんだ。かっこつけた分、痛めつけてやることにするがよ」  年とった助手のほうがつぶやき、ショットガンを昼なお暗い路地の方へふった。  やがて、ガスバーナーのように噴きつける憎悪の焔を冷え冷えと受け止め、Dは訊いた。 「やるか」 「あたぼうよ」  二人は三メートルの至近距離から、ショットガンを肩づけした。Dの長剣の及ばぬ距離を計算に入れての布陣だった。どのような動きを示そうと、剣よりはショットガンが速い。  ショットガンはすでに第一発目を薬室に送り込んであった。みるみる緊張が高まっていく。  Dの足元に、一本のツタガラセの木が生えていた。  きわめて繁殖力が強く、雑草駆除の最重点目標だが、どうしてもうまくいかない。取りこぼしや、細い根の一端でも残っていれば、新たに芽吹くまで三日、成木に達するまで三週間とかからない。  花もつけないが、生命力が極端に強く、寒冷地や一般緑地帯にもはびこっている。  Dの右手が枝のほうに伸びた。緊張し切っている男たちの指にも力を入れさせない、優美な動きだった。  かなり太い枝をいともあっさり根元からへし折り、Dは緑の綿菓子を思わせるそれで男たちのほうを指した。 「来い」 「おう!」  と叫んで、トリガーボタンを押す指は、歓喜の馬鹿力がこもっていた。  重々しい音を発して、片方三十六発、都合七十二発の散弾がDの胸から上を炎で包んだ。  いや、その寸前、薙ぎ払うように一閃した緑の光を彼らが見ることができたかどうか。  丸い鉛の弾は音を立てて砂利道の上に落ち、二人の助手は、脳天に食い込む刃の冷たさを知った。  ツタガラセの枝と葉で、飛来する散弾を払い落としたと、誰が信じることができたであろう。  血刀をひっさげたまま、Dは、ロケット・ランチャーの巨人に向かって話しかけた。 「来い」  巨人はわなないた。  絶対の自信を誇る小脇の殺戮兵器は、何の保障もないただの鉄塊と化していた。  散弾を木の枝でとばせる男が、ミサイルを自在に操れないという保証がどこにあるだろう。  猛烈な白光の中に、肉片と化して飛び交う自らの姿を想像して、治安官は青ざめた。 「どうする? お前はもう抜いた」  やるしかなかった。だが、どのような武器をもってしても、この男の剣を防げるとは思えない。  首筋のあたりに死神の手ざわりを治安官は意識した。  そのとき、大急ぎで横丁へ駆け込んできたものがある。ツルギ医師だった。  一瞬に事態を悟り、二人の間に入ってDのほうを向き、 「やめてくれ。殺し合いはもうたくさんだ。治安官を殺したら、あなたはそれこそ、ここを出ていかなければならなくなる。町長でも止められません」  Dの手が動き、医師はあっけなく横へ退けられてしまった。  戦いは始まり、Dは剣を抜いてしまったのだった。それは、敵と化したものすべての血を吸わねば鞘におさまらない。  治安官の喉仏が鳴った。初めて彼は、自分の相手にしたものの正体を悟ったのだ。  ざわめきが街の空気に色をつけた。何か起こったらしい。 「治安官、治安官!」  と呼ぶ声がして、足音が近づいてきた。 「運のいい男だ」  右手を軽くふり、刀身にこびりついた血糊を一滴残らず地面へぶちまけてから、Dは立ちすくむ治安官の脇をすり抜けて歩き出した。  もう用がないとでもいう風に去っていく。  入れかわりに、助手のひとりが飛び込んできた。惨状を見て、うっと立ちすくむ。 「な、何事だ!」  と、治安官が訊いた。  訊いた途端、地面が大きく揺れた。  地震の比ではない。大地そのものが、ほぼ九〇度に傾いたかのようであった。  恐慌が人々を襲った。あちこちで子供の泣き声がこだました。 「何事だ!」  今度は医師が叫んだ。 「磁気嵐の谷間です!」 「そんな馬鹿な——。南南西には進んでないはずだぞ!」 「で、でも確かに!」  なおも大きく揺れ動く大地の上を、悲鳴と怒号が交錯した。  通過する街の前方に、山の斜面が構成する狭隘な谷間の入口が見え、その入口を覆う紫色の雲が見えた。  あらゆる電子機器を狂わせる磁気流に向かって、街は確実に突き進んでいった。  磁気嵐の谷とは何なのか。  これもまた、貴族同士の抗争が産んだ狂気の品であった。  領土問題を巡る果てしない争いの末、貴族の一派は、自らのものと信ずる土地の周囲に様々な防御・攻撃施設を設けた。  有限な空間に無限を包含し、侵入者すべてを吸収してしまう歪曲空間。  色彩を武器化し、ダーム鋼の航空戦艦すら切断する渦動スペクトル。  視覚的幻影のみならず、自らの生態系すら別のものと「納得」させてしまう幻影機構。  そして、あらゆるメカの電子系を狂騒させ得る磁気嵐。  創造主たる貴族が滅びの光の中に去っても、これら鋼色の憎悪は永劫原子炉の出力とともに残り、人造妖魔、妖獣に匹敵する脅威を人々にふり撒いた。  いま、街が突入せんとする谷間に巣食うものも、まぎれもないそのひとつであった。 「おかしいぞ、警報が鳴らん!」 「それより——あんな場所、航路には入っていないはずだ!?」  妖々と明暗交錯する街路を、怒号にも似た声が走った。  避雷針を紫の稲妻が走った。小さな炸裂音の連続は、負荷に耐えかねたサーキット・ブレーカーだろう。  今や天地は暗黒と変わり、巨大な蛇のごとき光の触手が市街全域を取り囲みつつあった。  工場のシャッターがけたたましい音をたてて下がり、放電塔の放散フィンが大きく開いた。舷側からエネルギー吸収|棒《バー》が伸びていく。 「航路管理コンピューターはどうした!?」  地下のコントロール・ルームで誰かが叫んでいた。 「コンピューターに異常はないわ」  別の声が甲高く応じた。 「だが——航路は大きくはずれてるぞ!」 「ミスのデータがインプットされたのよ!」 「一体、誰が?——畜生め!」  小石を含んだ砂粒がDとツルギ医師の頬を打った。 「いかんな。|医師《せんせい》、早く戻れ」 「そう言うあなたも」 「おれの部屋は遠い」 「お送りします」  Dは医師の顔を見た。飄然と歩き出す。  医師もすぐ後を追った。  大地を稲妻が走った。  のたうつ細紐だ。砂を蹴散らし、石を跳ね、門柱に巻きついては火花を散らせた。  眩い光芒がDの姿を白熱に変えた。  落雷のエネルギーを放電フィンが放出しているのだ。  舷側のエネルギー吸収|棒《バー》も稲妻を受け止めた。変換器を通して原子炉へ送り込む。久しぶりの豊穣な餌に、核炉は青白い炎を上げて満足を示した。  Dは黙然と街路を進んだ。  周囲を光の蛇が駆け抜け、コートの裾に鎌首をもたげて火を噴いた。 「戻ります」  背後で医師が言った。 「しかし、怖くなったんじゃない。そりゃ怖いが、やっぱり私は今、怪我をするわけにはいきません」  Dはうなずいた。  それでは、と一礼し、医師が踵を返した。  その頭上へ銀光が一閃した。  医師の頭部へ覆いかぶさりかけた稲妻は両断され、地上でわなないた。  何も知らずツルギ医師は走り去った。  街がまた揺れた。  放電塔が燐光に包まれ、根元から火を噴いた。工場付近の地面から電光が|遡《さかのぼ》った。  エネルギー吸収回路が許容量を突破したのである。  吸収と放散——ふたつの手段は限界に達しつつあった。  街の航路が変わったのにDは気がついていた。  複合コンピューターによって管理される航行装置が磁気嵐の真っ只中に進路を設定するはずがない。何者かが外部から手を加えたのだ。  何のために?  街を何処へ向かわせようというのか?  町長に質問すべき事柄だった。  Dの足が停まった。  一軒の家の脇道から、ひとりの男がよろめき出た。  喉を掻きむしっている。電撃の犠牲者ではなかった。異様に青白い皮膚がDの眼を光らせた。  Dは身を翻して街路を横断しようとした。  男はその場へ倒れた。  通りをひときわ巨大な蛇が這い抜けた。男を見つけて鎌首を伸ばす。  Dは走った。  輝く蛇は、男の腹に吸い込まれた。黒煙が上がり、肉の灼ける臭いが四方に沁み渡る。  通りには黒焦げの死体が転がっていた。  稲妻が四方からDに走り、銀光に両断された。  Dが一歩踏み出そうとしたとき、黒煙を噴き上げるものが不意に動いた。  両腕を踏んばり、上体がゆっくり持ち上がる。服はもちろん、毛髪もちぢれ、顔面も炭化している。乾いた髪と服の破片が路上へこぼれた。  男は起き上がっていた。  五万ボルトの電撃に打たれて平気な生物はさほど多くない。貴族はそのひとりだ。病は感染するらしかった。  黒い顔の下辺に赤い空洞が開いた。  口であった。白い牙が際立つように、そこだけはいつも赤い。  炭と化した人間が、どうやって立ち上がるのか。  それは焼け爛れた全身を白光に縁どられながら、ゆっくりとDの方へ歩き出した。煙を噴き上げながら。裂けた肉の間から稲妻の触手をかがやかせながら。  Dは動かなかった。  黒い手が伸びた。  Dの喉元に触れる寸前で、それは緩やかな曲線を描きながら地に墜ちた。バサリという音をDはきいたような気がした。  黒い人型から厚みが失せ、塵粒の堆積と化して地面に広がる。瞬く間に突風がそれを吹き散らした。  二人目の「患者」だった。  だが、単に吸血鬼と化すのならば、完全死を迎えた人間は炭のごとく朽ちはしない。肉体の腐敗は、貴族の|下僕《しもべ》と化した時点から逆算して具体化されるのだ。  下僕化三日目の人間は腐爛屍体をさらす。  半月後ならば、溶解するだろう。一年以上経てば、まず塵と化す。  死のみは正しい生命の限界に従うのだ。たった今、貴族化した眼前の死体に生じた現象は、あり得ないものであった。  それとも、貴族化を秘め隠してきたのか。  それもあり得まい。これは全く新しい疾病であった。貴族化病とでも名づけるべきだろうか。  Dは死体に背を向けて歩き出した。  何処へ?    2  街の耐電作業は限界に達していた。  五基の放電塔のうち四基は許容量オーバーでブレーカーが焼き切れ、残る一基の作業能力も五〇パーセントを割っている。 「第一原子炉——エネルギー量五二パーセント・オーバー」 「第二原子炉、五七パーセント——限界です」 「第三原子炉、六九パーセント——|危険《デンジャラス》ゾーンを突破しました。危険、危険、危険」 「航路管制室、磁気嵐突破まで、あと何分かかる?」 「不明。——資料によれば、磁気帯の幅は平均四・七二キロ。今の速度なら、五分一九秒六」 「原子炉三基、二基、一基のエネルギー吸収を停止した場合、五分一九秒六以内に街に加わる危険度を示せ」 「三基の場合——二分二二秒後に『破壊』。  二基の場合——三分〇五秒四後に『破壊』。  一基の場合——五分二一秒三後に『破壊』。」 「第一原子炉のみ稼働を続行せよ。巡航速度四〇キロに増大」 「無茶です。外殼にかかる電圧が一気に三倍増——原子炉が吹っ飛びます」 「無茶は承知だ。磁気嵐を突破せねば、何もできん」 「了解」  ふたつの原子炉がエネルギー吸収を停止した途端、荒れ狂うエネルギーの牙は一気に第一原子炉へ集中した。  五つの保安器とエネルギー流調整装置が火を噴き、バランスを崩した核融合の炎は、急速に暴走ラインへ近づきつつあった。  やがて、街の底部から外板を突き破って青白い光が空中へ乱舞した。  凄まじい震動に、ローリイは声なき悲鳴をあげてベッドへすがりついた。  ツルギ医師が駆けつけてきた。ローリイの名を呼んで、跳びかかるようにして抱きしめる。  熱い胸にローリイはすがった。医師の胸はせわしなく鼓動をつづけていた。  この|男《ひと》も私と同じだわ、とローリイは思った。  はじめて少女は、若い医師に好感以上のものを抱いた。  街の前方に、ひときわ獰猛、大規模な光の蛇体がうねっていた。  至るところからひび割れのごとき稲妻を発し、それに触れた左右の岩壁は、ガラス状に変質し、街の頭上へ降り注いだ。  岩塊がどこかの家の屋根を突き破り、女の悲鳴がきこえた。  工場のコンプレッサーも直撃を受け、圧縮空気が高密度な鋼線となって作業員の身体を貫き、顔面を煮えたぎらせた。  白光が街を包んだ。  シリコン・ポリマーの屋根が吹き飛び、樹木が根こそぎ空中へ吸い上げられていく。人々は我先に地下室へと潜った。  凄まじい吸引力はDをも襲った。|旅人帽《トラベラーズ・ハット》もコートの裾も上昇を開始する。  広鍔を左手で押さえ、Dは一刀を抜いた。逆手に持ち換え、大地へ突き通す。  膝をついて待つ。  小石が舞い上がり、家屋の構造材が後を追った。  混乱を極めているのは、原子炉と航路管制室であった。  破壊孔から侵入した光の蛇は容赦なく隔壁を貫き、作業員を跳ねとばした。ぷんと、肉の灼ける匂いが周囲に満ちる。  吹っ飛んできた作業員の身体を町長は片手で床へ叩き落とした。凄まじいパワーだった。声を張り上げ、 「コンピューターの修正はやはり不可能か!?」 「無理です!」 「|手動《マニュアル》に切り換えろ!」 「五百年前に手動コントロールは廃棄しました!」  町長の顔が鬼の形相と化した。  周囲を荒れ狂う光の蛇に自ら掴みかかり、引きちぎる。  手が胴が黒煙を噴き上げた。頭髪が逆立ち、口腔で稲妻がきらめいていた。 「一体、何処へ……」  と彼は呻いた。 「誰が……街を何処へ連れて行く気だ……?」  生と死の狂乱をDは四方に聴いていた。  大地に突き立てた一刀を握り、片膝をついた姿勢は静かな黒い像のようであった。  大自然の怒号と狂躁のただ中で、彼だけがそれと無縁だった。  頭上に光が満ちた。ふた抱えもある蛇体が、空気分子を灼きながら落ちかかってくる。  死の元凶がこれだ。  姿勢を崩さず、Dは後方へ跳んだ。  交差しつつ地へ墜ちた蛇体はふたつにちぎれ、再び空中へ跳ね上がった。 「磁気帯が街から分離します!」 「全速力で抜けろ!」  嬉々とした叫びに呼応するかのように、スクリーン前方に青黒い空間が広がった。  眼もくらむ光はなく、静謐な闇に閉ざされた大空が。  吹きつけた風に打ち払われるかのように、街を彩る光は後方へ遠ざかっていった。 「抜けたぞ!」  誰かが叫んだ。  歓声が上がった。  放射能除去処理の指導を作業員にまかせ、ようやく個室で椅子にもたれた町長のもとへ、ハットン治安官が訪れたのは、それから三時間も経ってからだった。 「町民の様子はどうだ?」  両眼を閉じたまま、町長は不機嫌そうに訊いた。 「やっとおとなしくなったよ。いま、怪我人の数を調べている」  と治安官は何となく面白そうな声で言った。 「死者はないそうだな?」 「ああ。負傷者も驚くほど少ない。よく感電死が出なかったもんだ。放射能障害も軽微だったってな」 「わしが四十年前に開発させた除去剤のおかげだ。——ところで何の用だ?」  町長は眼を開けた。責めるように、 「お前はまだ外に——」 「想い出話をしに来たのさ」  と治安官は笑いかけた。町長が初めて見るようなにやけた笑いだった。 「エンデ・ランパールを覚えているかい? 十二歳の子供だった」  町長の顔に別人の相が現れた。 「……貴様、何のつもりだ?」 「可哀相に、下の町で医者に診せりゃ十分助かる筋肉の病だったのに、あんたは降りるのが嫌さに、治療不可能として自殺させちまったんだよな」 「——おい」 「エベネザー・ヴィリズヤのときはどうだったい?」  と治安官はロケット・ランチャーの銃身を撫でながらつづけた。 「ありゃ、おれが手を下したんだよな。彼は『飢餓の時代』に他人より半ポンド余分に合成バターを盗んだ。子供が餓死寸前だったんでな。町の連中も見て見ぬふりをした。誰も奴の家ほどひでえ状態じゃなかった。あんたも、最初は穏便に処置したさ。だが、自分のつくった街の掟を破った初めての男を、あんたはどうしても許せなかった。で、当時、治安官の助手だったこの男が銃片手に一家を射殺し、自殺に見せかけたってわけだ」  町長は椅子から立ち上がった。 「誰だ、貴様?」 「おれだよ。よく見てみな。正真正銘のハットン治安官さんだ。本名、ベイリー・ハットン、身長二メートル九十四、体重二百四十キロ、生まれは東部辺境第三三四|地区《セクター》。街への参加は……」  その顎が鈍い音をたてて鳴った。  二百四十キロの巨体はのけぞり、床へ転がっていた。  走り寄り、右足を巨人の喉元めがけてふり下ろそうとした町長の動きを、床から起き上がったランチャーの銃口が止めた。 「おーっと、やめときな。いくらあんただって、こいつを七発も食らえばあの世行きだ」  顎を撫でながら治安官は起き上がった。  さながら歩く山だ。今、誰かがドアを開けても見えるのは彼の背中だけだろう。  これに対して町長は百七十センチ、体重は六十五キロを超えはしまい。二百歳の年齢は、栄養剤でカバーできるとしても、彼の見舞ったパンチの一撃には、想像を絶するものがあった。 「おー痛え、聞きしに勝るってやつだな」  顎を撫でつつ言う治安官の声は、明らかに別人のものであった。 「——お前か……おかしな術を心得ているな」  別段、慌てた風もなく町長は椅子へ戻った。正体さえわかれば、いつでも料理できるという腹か。 「Dの相棒だときいたときから|胡乱《うろん》な奴とは思っていたのだが——治安官に取り憑いて記憶を奪うとはな。さて、これからどうするつもりだ?」 「なあに、大したこっちゃねえ。あんたみてえな大悪党からくらべりゃ、おれの願いなんざ、ちゃちなもんよ」 「ほう——で?」 「ナイト夫婦が遺したもンが欲しい」 「ほう」 「あの家ん中を隈なく捜したが、何ひとつ出てこなかった。あいつらの話じゃ、あんたもあれ[#「あれ」に傍点]を欲しがってたそうだな。——となると、どこにあるかは明白さ」 「残念ながら、わしにもわからん」  町長は椅子の上で両手をあげた。 「おまえが彼らを助けたと知って、是非、訊いてみようと思っていたところだ」 「はあん。花泥棒にかこつけて、取っ捕まえようとしたのは、あんたの差し金かい?」  治安官はプルート八世の声と表情でにやりとした。 「そりゃ、残念だったな。だがよ、あんたの言ってることが本当だって証拠はねえぜ。それどころか、この町にゃ、いつ乗り込んだかもわからねえ吸血鬼が跳梁してやがる。ケケ……乗り込んだなんて笑わせらあ。わからねえはずよ——あいつらは、最初からここにいた[#「ここにいた」に傍点]んだからな」  声は突然、治安官のものになった。 「半年前、おれはあんたの命令で、ダンパー・グリスウェルと、ヤン・ウェルの二人を誘拐した。何に使うつもりだったかは知らねえが、街ん中でも役立たずの飲んだくれがいなくなっても、気にするものはいなかった。だがよ、今となっちゃ、気になるぜ——あの二人、吸血鬼にされちまったんじゃねえのかよ?」 「だとしたら、どうする?」 「おおっと、動くなって。——それに、おれに何かしてもどうにもなりゃしねえ。痛え目をみるのはこの治安官さんだけで、おれは元の身体に戻り、また誰かに取っ憑く。そうさな、あんたの娘さんにでも……」 「そこから、別の身体に移れるのか?」  町長が訊いた。 「ああ」 「ふむ。では、わしに乗り移ってみるがいい。本当のことを言っているかいないか、すぐにもわかるはずだ」 「こりゃ驚いた。——いいのかい? 心の底まで読まれちまうぞ」 「かまわんさ。そうすれば、一時期、手を組んでもいいとわかるはずだからな」 「手を組む?」 「その通り、わしらの求めるものはひとつだが、使い|途《みち》は幾通りもあるということだ」 「なーるほど。あんたのがおれのと抵触しなきゃいいわけだからな。よかろう」 「治安官はどうする?」 「脳をちょっぴりいじって眠らせておくさ。しばらくここへは誰も入れるなよ」  町長はインターフォンに向かって入室を禁じる旨を伝え、治安官に向き直った。  巨体の手が、その皺深い手首をとらえる。  二秒……三秒……部屋中を揺り動かすような響きをたてて、二百四十キロは横倒しになった。  かわりに眼を閉じていた町長の顔にみるみる——彼以外の驚愕の相が浮かんだ。 「な……なんだって」  ひからびた唇から洩れる声も恐怖に満ちていた。自らの考えに脅えでもするかのように……。 「こんな恐ろしいこと……それでも、てめえは……いや、おれは[#「おれは」に傍点]——人間か……」 [#改ページ] 第五章 ローリイ    1  危機が去っても、街は悲劇から回復の兆候を見せなかった。  破壊された家の主は、修理に立ち上がるふうもなくへたり込んでいるし、近所の連中がそれを力づける様子もない。  誰の顔にも痴呆めいた表情が浮かび、抜け殼と化したように立ちすくむか、あてもなく街路をうろつくばかりだ。  凄まじい災害が彼らの体内から、大事なものすべてを奪い去っていったかのようであった。  そんな中で、あわただしく駆けまわる町長直属の救護班に混じり、てきぱきと威勢のいい若い声が鳴っていた。  病院の前に設けられた緊急医療施設で働くツルギ医師のものであった。 「さあ、一列に並んで、押さずにひとりずつその椅子にかけなさい」  患者が粗末な回転椅子にかけると、ツルギ医師は着衣の上からその全身に手を這わせ、二、三質問した。  両手のひらに「治療プログラム」が|印刷《プリント》されているのだろう。質問は心理動揺レベルを測るためのものである。 「OK——|S《シリアス》マイナス・9。軽微な放射能汚染だ。心的動揺は……。大丈夫だ。そこで薬を受け取って。——はい、次」  最後の方だけリアルな表情がその顔をかすめるが、後はきわめてにこやかな面貌を取り戻し、ひとり一分もかけずにチェンジさせてゆく手腕はなかなか鮮やかだ。  ただし、そのかたわらで薬の配給にあたるのは看護婦ではなかった。愛想ひとつ、元気づけの声ひとつかけるわけでもないが、大きな眼差しに精一杯の労りをこめてそっと薬を手渡すのは、十七、八の可憐な少女だ。  十数時間前まで、彼女の全身が放射能除去剤で覆われていたとはとても信じ難い。  ローリイである。  猫の手も借りたいと青息吐息のツルギ医師の姿を見て、彼女は自ら手伝いを買って出た。すっかり脅えきった看護婦が、いまだに痴呆状態から回復しないせいもある。  虚ろな表情の町民を見る眼は哀しげだが、それとは別に、発溂たる雰囲気が細っこい全身に溢れていた。  声と耳を失っても生きていかねばならない。その想いも強い。  だが、根本的にこの少女は、ひとりで何かをやり遂げることが楽しくてたまらないのであった。  微笑みかけるその眼が、不意に強い輝きを帯びた。町民の列で埋まった通りを、たくましい黒ずくめの影がやって来たのである。  医師のかたわらで、Dは立ち止まった。 「無事だったか?」  本気でそう訊いているのかどうかもわからない声は、無論、ローリイの耳には届かない。  それでも、自分と医師に投げかけられる眼差しに、厳しいだけではないものを感じ、ローリイは胸のはずむ想いがした。 「なんとか切り抜けました」  と医師は答えた。 「あなたはいかがです? ——ダンピールは、放射能耐久値も常人を遥かに凌駕すると伺いましたが」  言ってから、医師はあわてて口をつぐんだが、町の連中は数名が軽い驚きの色を浮かべただけで、ほとんど無反応であった。  磁気嵐のショックが原因にしても、これは少々度がすぎる。 「屍体は中か?」 「ええ、まだ眠ってます。どんな技を使ったのか知らないが、大したもんですよ」 「見せてもらう」 「いいですよ。そのかわり、条件があります」  医師は診察の手を止めずに言った。 「何だ?」 「調査が終わったら手伝って下さい」 「おれには何もできん」 「手足が揃ってれば仕事はありますよ」 「時間があったらな」  意外にも返事をしてDはドアをくぐった。  自分に一瞥も与えぬその背を、ローリイの哀しげな視線が追った。  手術室に入ると、Dは棚から携帯用の原子ランプをおろし、スイッチをオンにした。  青白い炎が芯から燃え上がる。隅の手術台に横たわる男の姿が、青く縁どられた。  水道の蛇口をひねって水を迸らせると、Dは左手の方へ眼を向けて訊いた。 「土も用意してあるが、どちらを先にする?」 「気楽な質問をするな」  すぐに返事があった。  と同時に、白い手のひらの表面に目鼻を具えた人の顔が妖々と浮かび上がってきた。  ぶんむくれの表情で、 「火が先にしろ、水が先にしろ、近頃は味が良くない。食うのは、わしだからな。——ほほう、今日は原子炉か。こりゃ美味そうじゃわい。アルコール・ランプだの、人狼の乾いた糞だのはいかんの。あれは最悪じゃ」  Dはコートの内ポケットからひと掴みの土をランプの横に置いた。 「早くしてもらおう。そろそろ死人が眼を覚ます頃合いだ」 「ふん。それならば、もう一度眠らせるがよい。毎日毎日こき使いおって」 「水か火か」 「ふん、土じゃわい」  黒っぽい塊の上にDは左手をかざした。  思いきり空気を吸いこむ猛烈な音が湧き、土塊は上方からそぼろ[#「そぼろ」に傍点]のように崩れて手のひらに吸い込まれていった。 「まずいの」  きれいさっぱり、それこそ、ひと粒も残さず吸い上げてから声が言った。 「これは栄枯盛衰、|輪廻《りんね》転生を経ておらん土じゃ。地球から生命を与えられたものではない。スチールの上を覆っている装飾じゃな。こんなもの食わせても、満足な結果は得られんぞ」  Dは無言で左手を原子の炎にかざした。 「うげげ——馬鹿もの。次は水じゃ」  と声が喚いても動かない。  この薄情もの、と罵る声もすぐにやみ、原子の輝きは——あり得ない事だが——みるみる一本の光る帯に収束し、これもDの手の中へと消えていった。正確には、手のひらに開いた小さな唇の中に。  それがどんなに貪欲であったか——組み込んだ超小型核炉の力で十年間は消えずに保つはずの原子の火が、二分と経たないうちに色褪せて揺らぎ、ついには頼りなく消滅してしまったのである。  この怪事にも、Dは眉毛ひと筋動かさず、水流を迸らせる蛇口の下へ、今度は手のひらを上向きに置いた。数分後、 「ぐえ、もう結構」  呻く声とともに、Dは蛇口をひねって止めた。 「調子はどうだ?」  と訊く。眼は前方の屍体に注がれていた。 「ま、何とかな。夕べよりはましじゃろう」  声と一緒に、ごおっと手のひらから炎が噴き上がった。  数千度の熱に青く染まった口腔内で赤い舌が平然と動き、 「どりゃ、分析にかかるか」  と宣言した。  何の感慨もなさげな様子で、Dは左手を手術台の男——その額へのせた。  その瞬間、屍体は全身を硬直させ、腰を中心に弓なりに反り返った。腰骨が砕けてもおかしくはない、激しい反り方だった。  全身におびただしい赤い点が生まれた。血の粒だ。  とうの昔に活動を放棄したはずの肉体が、再び代謝機能を営みはじめたのか。鮮やかな赤点はぐんぐん大きさを増し、やがて表面張力のバランスが崩れるや、不気味な尾を引いて下方へ流れはじめた。  その最初の一滴が手術台の上に落ちたとき、屍体はかすかな呻きをもらしたのである。  Dは眼を半眼に閉じていた。  手[#「手」に傍点]は何をしようとしているのか。  分析とは何なのか。  屍体から、彼は何を知ろうとしているのか。  町民の治療と薬品配布が一段落すると、ローリイはすぐ医師の方を向いた。ツルギ医師は両手を揉みながらうなずいた。  少女は立ち上がり、病院へ入った。大きな足音を立てぬよう注意しながら、待合室を覗く。  誰もいない。  院長室か、それとも手術室だろうか。Dの用がまさか屍体にあると、ローリイは思ってもみなかった。  再び廊下に出た。  院長室へ行こうとした。廊下の一番奥にある。  数センチ先で、手術室のドアが内側へ開いた。  ぬうと人影が現れた。全身が血まみれの男であった。  ローリイは立ちすくんだ。喉まで出かかった悲鳴を夢中で呑み込んだ。  男はどっとくずおれた。  背後に別の影が立っているのを見たとき、ローリイは崩れかかる膝を必死で押さえた。不様な様子は見せたくなかった。声と耳とを失い、これ以上、何かを失くすのはごめんだった。  必死に足場を固めようとする少女を、Dは無言で見つめていた。  何とか震えを押さえ、胸に当てた手がおりるのを待って、屍体の首をつかみ、手術室へ戻す。  床にこぼれた血を眺める双眸に暗い色が|点《とも》る。  廊下へ戻ると、ローリイはもう正常に戻っていた。もともと気丈な娘なのだろう。 「何か用か?」  Dは訊いた。  声に出して。  ローリイはその唇の動きを必死で読もうとした。なんとか読めた。  首をふった。用は何もないのだった。  ただ会いたいと思った。それだけなのだった。 「失くしたものは取り戻せないが、新しいものを身につけることはできる」  Dは誰にでも話しかける口調で言った。ローリイの身体のことなど、気にもかけていないようである。  何を言われたかわからず、今度こそ聞き逃すまいときつく唇を結んだ少女へ、 「来たまえ。時間はあまりないかもしれん」  こう言って歩き出した。  ローリイも後を追った。微笑が浮かんでいた。Dの冷たい横顔を見ているだけで、何となく言葉の内容がわかったのだった。 「どこへ行くんです?」  玄関を出たところで、医師が声をかけた。 「この街でいちばん高いところはどこだ?」 「工場裏の丘ですが」  うなずいてDは歩き出した。  通りを歩き去るふたつの影を、医師は遠い眼つきで眺めた。  チャド・ベックリーの家は比較的被害が少ないといえた。  落石で幾つかの穴が開いた天井へ防水テントを貼りつけ、修理はいずれそのうちということにした。  家族は四人。主人のチャドと妻のベラ、息子が二人いてルークとサイモンである。  家族たちはチャドの様子が妙に気になった。  航路管制室から戻って以来、表情は重く沈んでいる。食事も摂らず、屋根にシートを貼るとすぐ、ベッドに入った。  チャドの不安は、街の行く先にあった。  コンピューターにインプットされた新航路は、明らかに貴族の遺跡のひとつに向かっている。二日と経たぬうちに到着するだろう。  だが、そこに何が待っているのか。  町長すらわからないという。  言い伝えだけは知っている。墓だ。それも、精緻神妙な紋章と電子メカに守られた貴族のものではない。  そこに眠るものは……。  不安へと傾斜する精神を半ば強引に引き戻し、チャドは眠ろうと努めた。  窓の外では風が鳴っている。明日も夜明け前には起きて管制室へ向かわねばならない。  この街は一体どうなるのか。  チャドの脳は熱く醒めていた。  階下ではまだ妻と子供たちが起きているようだ。あまりの大異変に、精神が休まらないのだろう。  かすかな音。ドアを叩く音だろうか。  妻が歩いていく。軋みが伝わってくる。町長に言って改築せねば。  だが、こんな晩に誰が? 管制室なんて二度と行かんぞ。  入ってきた。ドアが開いている。  何かが倒れる音。あいつ[#「あいつ」に傍点]、また椅子にでも足をひっかけたか?  おや、起き上がらないな。  足音が居間を横切り、階段を上がってくる。軋ませながら。女房だろう。  廊下だ。  やってくる。ゆっくりと。こっちへ。  止まった。子供たちの部屋の前で。  出向いた方がいいのだろうか。  いいさ、どうせ女房だ。それにおれは疲れてる。  ドアが開いた。開けなきゃいいのに。  おや、今のは悲鳴だろうか。  また倒れる音。ふたつだ。  ドアが閉じて——  やってくる。ゆっくりと、あわてずに……  止まった。寝室の前だ。  まさか……  ドアがノックされた。チャドはしばらく寝床にいた。  ノックはつづいた。少しやんで——また。  チャドはベッドを降りた。  一歩一歩、絨毯を踏みしめるようにしてドアへと向かう。  行きたくなかった。  ドアの外にいるのが妻なのはわかっている。だが、もし違っていたら……  ドアの前で、チャドは少し立ち止まっていた。  ノックがやんだ。ドアのノブがかちりと回された。やわらかく、それから急に——  荒っぽい音をたてて、金属のノブと留め板が、それを打ちつけたドアの部分ごと消えた。  空洞が開いた。ドアが開いていった。  誰かが立っている。  妻ではなかった。  凄まじい息苦しさがチャドを襲った。  喉をかきむしろうと伸ばした手が目的地にたどり着く前、彼の心臓は鼓動を止めていた。  それは確かに丘であったが、五メートルの高さでは、眼下を一望する、というわけにはいかなかった。  ただ、二人のうちのひとりにとっては十分であったろう。  彼女はひとりではなかったし、傍にいるものは、闇こそがふさわしい男であったからである。  見下ろす平原は月光の下でも限りなく暗かったが、東の空はすでに薄い暁光がさしはじめていた。  風がローリイの頬を刺した。|錐《きり》のように冷たい風であった。  ローリイはDを見つめていた。  Dは東の空を見ていた。闇に封ぜられたものも暁光を望むのだろうか。  何をしに高みへ登ったのか。  Dはローリイのかたわらに身を屈め、左手の指を地に伸ばした。  砂地に記された文字をローリイは読んだ。  声がきこえる。  とDは書いていた。何の声が、だろうか。無残ともとれる一行であった。  羽織ったコートの襟を、ローリイは高く立てた。  風が柔らかい髪を揺らして去った。寒い、と思った。  人は自然の中で生きていくことなどできないのではないか。夜明けですら、これほど寒いのに。  町はなおも動いている。  |何処《いずこ》へ。  目的地もなく。  何処へ。  Dが何を考えているのか、ローリイにもわからなくはなかった。長いこと街で育ったとはいえ、荒野の生活を経験した娘である。  荒野は恐ろしすぎた。  貴族たちの放った妖魔、凶獣の恐怖は、今も日暮れどきになると、身が震え出すほどだ。  街へ帰りたい! 痛切にローリイは願ったのだ。  だが、いまになってみると、切望した天国の何と空虚なことか。  音も言葉もローリイにはない。だからこそ、一層強く感じられるのだ。  ほどほどの労働時間、ほどほどの衣食住。満ち足りた、けれども満ち足りることのない生活と。  磁気嵐をくぐり抜けた人々の喪失感が、それに輪をかけた。荒野の生活を経験していなかったなら、自分もその中のひとりであったろう。  |驕《おご》る気持ちとは遠い娘だったが、ローリイはいま、この街がどこかで間違っていることを知った。  無音の絶望の中でのそんな余裕を誇るべきだろうか。  どうしようもない|寂寥感《せきりょうかん》が小さな胸を満たした。  住むべき世界は彼方の大地にあるような気がしたが、ローリイには極めて遠い国だった。  そこへ降りて、どうなるのか?  東の山の端が薔薇色に輝きはじめた。光は山腹を滑り降り、滔々と平原に溢れ、やがて、ローリイの視界を黄金色に染めた。  ローリイは眼を閉じた。閉じても見えた。風の色が。風もまた輝いているのだった。  少ししてDが口を開いた。  ローリイは読もうとした。読み切れなかった。  少しゆっくりDは繰り返した。やっと理解できた。  次はひとりで来たまえ。  彼はこう言っているのだった。  執務室の椅子で寝込んでいる町長のもとへDが訪れたのは、600|M《モーニング》を少し回った頃だった。  胸が冷たく締めつけられる苦痛に、町長は跳ね起き、ドアのかたわらに立つハンターを見た。喉に手を当てて嘆息し、 「いつから、そこにいる?」 「………」 「死ぬ思いをしたのはお前のせいか……そばにいるだけで悪夢を見せられるのか、ダンピールというのは?」 「訊きたいことがあって来た」 「そうそう……少し前にやって来たそうだな。外出しておってな、失礼した」 「あの家族を引き止めたそうだな」  静かな口調に、ミン町長は眼を剥いた。 「誰からきいた?」 「誰でもいい。何故、とめた? 牢獄にまで入れて」 「答えねばならんのか? おまえには吸血鬼を斃してもらえればいいのだが……」 「その吸血鬼を造った奴がいるとすれば?」 「なにィ」 「二百年前、この街に乗った男は、おまえに何を話した?」 「………」 「その話の内容は?」 「………」  町長の額から汗の粒が湧いた。 「前に話した通りだ」  意志の強さを欠く声を、Dは静かに粉砕した。 「二百年前訪れた男は、おまえに何事かを告げた。想像はつくが、それは言うまい。だが、男の希望を成し遂げたのは、ナイトの方だった。長い時が過ぎてからな。おまえはそれを欲しがった。何のために? ナイトとの|齟齬《そご》はどこにあった?」 「………」 「二百年経って、突如、吸血鬼が跳梁しはじめた。それなのに原因が掴めない。人間を吸血鬼と化すべき元凶が存在しない。答えはひとつ——それは造られたのだ。何者かの技術によって」  Dの眼は町長の魂を吸い取るかのようであった。 「奴がおまえに伝え、おまえがナイトに教えた技術によって。——あの家[#「あの家」に傍点]には何がいた?」  町長はステッキの柄に両手をのせ、|頭《こうべ》を垂れた。 「街は永劫の平和を維持しなければならん」  下げた頭の下から、呻くような声が漂ってきた。 「今は理想的な状態だ。だが、それでもなお、破壊と夢魔は我々を狙っておる。町民を守り抜くことが町長の務めだ」 「理想と平和か」  Dはつぶやいた。  彼の口から出ると、それは意味を失い、ただの言葉に変わった。 「それこそが辺境の理想だったはずだ」  こう言って町長は顔を上げた。歪んでいる。艶やかな皮膚は人工処理を受けていたのだろう。顔中に這った醜い皺は、鍬を入れられたばかりの耕地を思わせた。 「貴族にも、その|眷属《けんぞく》どもにも忌まれることなく、苛烈な自然の中で安らかに生きる——これが人間の理想だった。わしはこの町を造り、選ばれた者たちを乗せたことで、誰よりもそれに近づいたはずだ。だが、まだまだ脅威は多い。まだまだ完璧には遠い……」  町長の指がデスクの上を押した。  Dは街の中にいた。  磁気嵐直後の住宅区だった。ホログラフィ・カメラで撮影したものだろう。家々のプラスチックの屋根は溶け、放電塔は青白い煙を噴き上げて断末魔の火花を放っている。火傷を負った人々がひとりで、あるいは親兄弟に肩を借りてのろのろと歩みゆく先は病院であろう。  幼い娘がDの腰を抜けて部屋の奥へ消えた。消火車がソファを貫き、ドアへと突進していく。  何処かで火の手が上がった。  中年の男が帯電した手すりを掴んでしまい、紫の光を噴き上げながらのけぞる。  凄惨な光景であった。 「これが、街の限界だ。磁気帯など、貴族の放った他の妖魔どもにくらべれば物の数ではない。そこへ飛び込んだだけでこのざまとは、街の理想はまだ、わしの考えるものとは遠い」 「理想の実現には、それなりの犠牲と手段がいる。血塗られた手段がな。おまえ、ナイトに何を依頼した?」  町長の喉がごくりと鳴った。  このままDが出ていくとは思えなかったし、嘘をついて騙せる相手でもなかった。  じり、と動きかけた足は凍りついて止まった。  鬼気が部屋を満たしつつあった。  これが、ダンピールか……  これが、Dという男か……  心臓が止まってもおかしくない恐怖に、震えることもできず、町長は美しい顔を見つめた。 「答えろ。ナイトへ依頼したものは何だ? ナイトは何を発見した?」 「……それは……」  町長は喘いだ。  凄まじい精神力が彼のそれを圧倒しようとしていた。 「それは……」  卓上のインターフォンが赤色に輝いたのはそのときだった。緊張を告げる短い音の連続に、Dの鬼気がすっと消えた。  脂汗を拭きつつ、町長がインターフォンのマイクを掴んだ。 「何事だ?」 「航路管制室です——北北西六十キロの地点から、飛行物体が一個接近中。速度は毎時九十キロ。大きさは——ほぼわが街と同様です。連絡はしていますが、応答ありません」 「わかった。すぐに行く。念のため迎撃の用意を怠るな」  インターフォンを切った町長の顔には安堵の色が浮かんでいた。  この若者と一緒にいるよりは、未知の侵入者に心を砕いている方が気が休まるのである。 「というわけで——」  Dの方を見ずに言ったとき、インターフォンがまた激しく鳴った。 「どうした!?」 「飛行物体がミサイルを発射しました! 総数三。命中まで二〇秒——接近中!」 「バリヤーを張れ!」 「磁気帯で損傷——なお修理中です」 「迎撃ミサイルと対空砲発射!」  蒼ざめた表情でもう一度町長が顔を上げたとき、Dの姿はもう見えなかった。  街へは死神が飛来しつつあった。  頭部にセンサーを収め、後端のノズルから炎を噴き出す細長い死神が。  それは街と自らの速度を計算し、到達地点を常に修正しつつ、まっしぐらに接近していた。  音もなく出現した黒ずくめのハンターに、エネルギー出力調整室は近づく死をも忘れて茫然となった。 「バリヤー発生装置は何処にある?」  Dが静かに訊いた。迫り来る死を知ってなおこの口調であった。  全員の眼が一斉に奥の一隅に注がれた。  銀色の円筒へDは近づいた。走る影のようであった。  作業員が声もなく左右に分かれた。その中心に、なおも青白い電磁波の乱れ飛ぶ破壊孔が口を開けていた。  ひとりだけ、持ち場を離れない男がいた。溶接器具を手にした身体が、このとき不意に跳ねた。  胸の防御板が火を噴いている。電磁波の一撃を食らったのだ。  Dは音もなく、男と破壊孔の間に立った。美貌は限りなく、青く、冷たく輝いた。 「やめろ。電磁波の出力をオフにできねえんだ!」  胸の炎を手で打ち消しながら男が叫んだ。 「そこの電圧は十万ボルトだ。防御板がなきゃ即死だぞ」 「管制室と連絡をとれ」  Dは立ちすくむ作業員たちに命じた。 「バリヤーの必要時にはおれが電流を通す」  疑問も否定もなく、男たちはうなずいた。責任者らしいひとりが、肩のマイクに口をあて、航路管制室とをつなぐ。  かすかな揺れが船体を伝わった。  対空砲火の開始であった。  重力遮断装置や電子バリヤーを備えていながら、街の戦力は意外と原始的なものであった。  折り悪しく一時間前から分解点検に入ったプロメテウス砲を別にすれば、二インチ広角砲が二十門、迎撃ミサイル三十基である。  弾丸やミサイルは自給というわけにいかないから、この街のような浮遊都市を専門に商う空中商人から仕入れる。  それですら辺境には数少ない。  会合は年に三度。その間に自給不可能な物資を失えば、浮遊都市はそれを自力で調達するしかない。都市や街同士の戦闘の多くは、それを原因とする。  だが、新たな出現者の行動は、闇雲な殺戮以外の何物でもなかった。  空中に七色の炎が広がり、周囲を黒煙が取り囲んだ。  広角砲の弾丸には破壊力を増すべく劣化ウランと近接信管が仕込まれている。命中しなくても、破壊圏内でセンサーが目標を探知すれば、自動的に爆発する仕組みだ。  発射のたびに街は大きく揺れた。  無反動砲ではない。  ミサイルは驚くべき動きを示した。意志あるもののごとく、砲弾を避け、速度を変えつつ着実に突進してくる。  嘲弄ともとれた。  迎撃ミサイルは微妙な距離調整がほとんど不可能だ。発射されたすべては、虚しく虚空に白い弾道を引いて消えた。  小さな黒い死は、確実に街を覆いつつあった。  人々は窓から四つの光点を眺めていた。  虚脱状態に似た表情が顔を埋めている。ミサイルのもたらす運命を考えただけで、精神の張りが失われてしまったのだ。  下界の脅威を知らぬ平和は、外敵の攻撃にもろさを露呈しきっていた。 「ミサイル接近! 接触まで三秒!」  男の肩のマイクから、血も凍る叫びが迸った。  全員の眼がDに注がれた。  Dの手が破壊孔に伸びた。  電導コードの束を掴んで引っ張り出す。手首から肩にかけ、青白い電磁波が蜘蛛の巣みたいにまとわりついている。  身体のどこからか、白煙が立ち昇った。  美貌にいかなる苦痛の色もないことが、人々を驚かせた。  右手も動き、分離したコードの端を引き出す。電磁波はDの全身を覆った。  この若者が黒以外の色彩を帯びたのは、はじめてではなかろうか。彼の身体を電導媒体として、核炉のエネルギーは一気にバリヤー発生装置へと走った。  街の周囲に極彩色の華が開いた。  一億度に達する炎と致死量の電磁波、放射能が大気を撹乱させ、不意に出現した電子の壁を破壊しようと暴れ狂った。  Dの右手から左手へと走る電磁波の流れが逆転したのを人々は見た。  Dの眼が細まった。  流れは再び変わった。  三発のミサイルが空中に散じるまで、バリヤーは解けなかった。    2  Dが身を|退《ひ》いても、調整室内に歓声は起きなかった。  あまりの凄まじい光景に度胆を抜かれたのと、危機を回避した安堵感とで、痴呆状態に陥ってしまったのだ。  眼前の恩人はどう見ても人間ではなかった。だからこそ、あれほど美しいのだった。  軽く頭をふり、Dは立ち昇る白煙を薙ぎ払った。 「飛行物体接近中!」  と幾分だらけた声がマイクから響いた。  まだ、本体が残っていた。  次の攻撃に備えてか、Dは動かない。 「接近中——距離一キロメートル、九百、七百、六百……」 「ぶつかるぞ……」  と誰かがつぶやいた。 「方向転換はできん」 「おしまいだ……」  彼らの前で黒い風がはためいた。  Dは調整室を出た。階段を駆け登り、一気に街路を抜ける。  人影はなかった。陽光だけが降りそそぎ、それは何事もない平和な街の光景だった。  聞き覚えのある声が呼んだ。  Dはふり向いた。ツルギ医師とローリイが駆けつけてくるところだった。  Dは止まらず走った。  街区を横に走り抜けると、防護壁の彼方に眺望が開けた。  敵の姿はもはや明らかだった。  浮遊街区というのは、やはり類似した形態をとるのか、高速で飛来する影の外観は、ほぼ街と等しかった。  いや、それは街そのものであった。  見慣れた住宅の列も、航路管制塔も、三次元レーダーも等しく陽光を浴びていた。  異なる点は、そのどれもが凶々しい装甲板で補強されていることだろうか。  新しい「街」の目的はひと目で知れた。略奪船である。  平凡な街区を装い、交易を求めて接近するや、砲火を浴びせて獲物の攻撃力を奪い、武装兵士を乗船させる——いわば空の海賊ともいえる。  だが、不思議なことに、船体の窓にも街路にも、それどころか管制室の展望窓にも人影ひとつ見当たらないのだった。 「おかしい——略奪船なら、ここで集中砲火ですよ」  背後で息を切らしたツルギ医師の声がきこえた。 「でも、奴ら、接舷してきます。戦わなければ」 「治安官はどうした?」  Dはゆっくりと旋回しつつある略奪船に眼を向けたまま訊いた。 「じきに来るでしょう。ですが、役に立つかどうか」 「どうしてだ?」 「もうご存知と思いますが、過保護なほど刺激には弱いものです。ここの町民はあまりにも平穏を維持してきすぎました。争い、揉めごと——すべては、狭い街の中で処理できるものです。外敵に対処する術を知らないというより、あの稲妻騒ぎで全員が虚脱状態に陥っています」 「では、おれたち三人だけか」  ツルギ医師は困惑の表情を浮かべた。 「三人?」とつぶやき、みるみる青ざめる。 「なんて人だ——ローリイを使う気なのですか? この娘は——」 「独りで生きねばならん」  Dの言葉に|風刃《ふうじん》の響きがあった。  少し口ごもり、ツルギ医師はうなずいた。 「そうでした。辺境で生きるとは、そういうことでしたね——ですが」  鈍い衝撃が三人の身体を揺すった。  敵船が接舷したのである。  Dはコートの内側からメモを取り出した。ローリイの病院に置かれていたメモである。  何のために持っていたのかと、医師は眼を見張る想いだった。  Dは人差し指の先を口にあてて噛み切り、メモの上に走らせた。 『戦わねば斃される。君も仲間に入れ』  仲間に。  それは三人一緒に戦うということだった。  ローリイは力強くうなずいた。 「しかし、何をさせるのです。この娘に?」 「兵器庫へ行って武器を運んでこい。彼女は弾丸運びと装填係だ」 「わかりました」  二人は走り去った。  Dは背後の街区をふり返った。  去っていく二人の足音と入れ替わりに、荒々しい複数の足音が湧いた。町長と治安官たちだった。都合四名。医師は役に立つかどうかと言った。  新たな衝撃が防護壁を襲った。  略奪船の甲板から、数枚の鋼鉄の板が渡されたのである。  先端の鉤爪ががっちり壁に食い込み、治安官たちは思わず後ずさった。  どの顔も恐怖に強張っている。誰もが知り合いという閉鎖社会では|強面《こわおもて》の男たちも、そんな甘えが通じぬ外敵を前にしたいま、単なる腰抜けに近いのであった。  Dの眼がわずかに細まる。  沈黙と——発狂しそうな時が流れた。  何も起こらない。  略奪のための橋を渡しながら、血に狂った無法者は、ただのひとりとして姿を現さないのである。 「なんでえ、こりゃ」  と治安局のひとりが安堵したように言った。 「奴ら——おれたちを嬲ってるのか? ひとりも出てこねえぞ」 「いま出てくらあ」  と別のひとりが泣きそうな声で言った。 「それでもって、恐ろしい武器でおれたちを八つ裂きにするんだ。畜生、畜生。なんで、こんな化け物と出くわしちまったんだ」  治安官の一喝がとんだ。 「よさねえか、みっともねえ! ここまで来て泣き言を言うな。小汚ねえ略奪屋どもなんぞ、ただのひとりも街へ入れねえぞ!」  さすがに他の連中にくらべて胆は据わっているらしい。  腰抜けの助手どもも、このひと声でショットガンを握りなおした。  それでも——何も起こらない。町長が不審顔でDを見た。 「どうも、からかわれているようにも思えんが……」  答えず、男たちの鼻先で黒いコートが舞った。  Dは渡された通路の上に立った。  風に黒髪をなびかせ、コートをなびかせ、氷の眼差しだけが、敵船の甲板を見つめていた。  唐突に、その姿が音もなく進んだ。  顔を見合わせていた男たちも職務上やむを得ないと思ったか、町長をその場に残し、治安官を先頭になんとか壁をよじ登って通路を渡りはじめた。  三メートルほどの板を渡り切ると同時に、ふたつのものが男たちを蒼白にさせた。  異様な気配と臭気とが。  気配の意味するものは死であった。  臭気の意味するものもまた死であった。  ついいましがた、自分たちに死の恐怖を味わわせた凶船の不気味な沈黙は、かえって荒くれ男たちを震撼させるに足るものであった。  Dの姿はすでにない。  男たちは市街へ降りた。  すぐ眼の前に居住区が広がっていた。構造そのものは街と大差ない。 「ピート、おめえはヤンと管制室をあたれ。おれは居住区を調べる」 「でもよお、治安官——なんかこう、薄気味が悪いぜ、ここはよお……」 「馬鹿野郎。この調子じゃ、この船は人なんかいねえかもしれねえ。互いに殺し合ってとか、疫病が発生したとかの原因で、乗ってる奴らはみんな死んじまったかもしれねえんだ。となると、ようく考えてみな」  薄気味悪そうにふらついていた顔が、不意にかがやいた。 「そうか——ここは略奪船だったな。するてえと、大したお宝が」 「そうともよ——町長にゃ、余分のエネルギーや航路管制コンピューターが使えると言っといて、肝心な積み荷は、おれたちが頂くのよ」 「あったまがいいぜ。さすがは治安官——だけどよ、先に乗りこんだハンターはどうする?」 「決まってらあな。|殺《ばら》すのよ」  とDの実力を知らぬもうひとり——ヤンが言った。Dに斃された二人の治安官助手のことは知っていても、その眼で見ぬ限り信じられぬのが、人間の理性というものだ。 「幸い野郎は、船内の探検に夢中になってる。闇討ちにゃ絶好だぜ。なに、防御機構にやられたとでも言えばいいのさ」 「そいつは考えもんだ」  さすがに治安官の声が落ちた。Dの切先を喉元へ突きつけられたものだけが知るダンピールの実力であった。 「いいか、あの男にゃあ一切手を出すな。こっちは貰うものだけいただきゃいいんだ。おれは奴の力を知っている。ただのハンターと同一視してたら、痛い目を見るだけだ」 「だけどよ」  とヤンが異を唱えるのを—— 「あいつの処分はいずれ考える。いいな、何があっても手を出しちゃならねえぞ」  治安官は強く言い放って、ロケット・ランチャーを握り直した。  ピートやヤンと別れ、治安官は居住区へ足を踏み入れた。無意識のうちに、物音と気配とを探し求めていた。  何でもいい。  息を潜めている凶悪犯どもから立ち昇る殺意。  彼らとともに通路を渡り、犠牲者の喉笛に食らいつかんと牙を研いでいる凶獣どもの唸り声。  連射|弓《ボウ》の|安全装置《セフティ》をはずす音。  何でもいい……  何もなかった。鳴るのは風ばかりだった。  人造砂も消し飛び、構造材の地が剥き出しになった街路に人影はなく、ひからびた街路樹の枝だけが、乾いた音をたてている。  埃が喉を襲い、治安官はハンカチで口元を押さえた。咳き込む音が森閑とした空気に不気味な響きを与え、治安官は身を震わせた。  空は青い。地上には彼自身の影が大きく、長々と落ちている。それなのに、巨人はすくみあがっていた。  街がある。建物がある。ミサイルを射った。接舷し、通路を渡した。それでいて、乗組員がひとりもいない。何という恐ろしさであったか……  町長——というか、海賊船の司令官の家を探して歩みかけた彼の靴先に固いものがあたった。  思わず落とした眼が、かっとひんむかれた。  それは一本の白い骨であった。  大分以前のものか、すでにひからび、表面は薄茶色を帯びているが、明らかに大腿骨である。治安官の眼は、その切り口を見てさらに大きく見開かれた。  焼け焦げている。炭化の痕であった。  指先でこすると、粉末状の残骸がこぼれた。火事のような低温でじりじりと灼かれたものではない。超高熱の一閃を浴びたのだ。レーザーであろう。  はじめて、治安官はあちこちに散乱する白いものに気づいた。  頭蓋骨だ。胸骨だ。ボロをまとわりつかせた|髑髏《どくろ》だ。  虚ろな眼窩とぴたり向き合って、たくましい背が冷や汗を噴いた。  恐怖に凍りつかんとする|精神《こころ》を無理矢理ふるいたたせ、治安官は、酒場らしいバラックの前に倒れた五体満足な白骨体に近づいていった。  額を貫いた鋼鉄の矢が、ここで繰り広げられた惨劇を如実に物語っていた。  白骨の伸ばした手指には、黒光りする旧式な自動拳銃がしっかりと握りしめられていた。  指をはずして調べた。弾丸は撃ち尽くされていた。  長い間の死闘の結果であろう。  一体、何が原因で、略奪船の荒くれどもが殺し合いをはじめたのか。  背後で人の気配がした。  治安官の巨体は電光の速さで半回転した。  七つのミサイル発射孔の前に立ちすくんだのは、ツルギ医師とローリイであった。 「何だ——おめえらか……」  額の汗を拭い、治安官は銃口をおろした。 「一体、何事です、この船は? 何があったんです?」  熱血医師の声もやや震えている。  不気味そうに周囲と足元を見つめるローリイも不安げだ。ただ、医師や治安官と異なり、いかなる音からも遮断された世界にいるが故に、かえって恐怖の度合いは軽減されているといえた。  どちらも両手にショット・ガンを抱えている。 「見ての通りよ。どうやら殺し合いがおっぱじまったんだ。骨の具合からみて、かなり前だろう。この分じゃ、ひとりも生き残っていねえぜ」 「ですが、ミサイルを発射したのですよ。あの通路だって——人のいない船が自動的にやった事ですか? それでは、まずミサイルを射った意味がわかりません。あれは小型ですが、核ミサイルでした。命中していれば、一発で、街は撃墜されていたでしょう」 「撃墜できなかったから、接近したんだろうよ」  治安官は吐き捨てた。  二人の顔を見て人心地がついた途端、金品強奪の欲望が頭をもたげたのである。  急速に二人は邪魔な存在と化していた。  ——ついでに、こいつらも……  ふと狂気に似たものが胸中で動いた。ランチャーの銃身がすっと上がる。  そのときだった。  遠くで絶叫が響いた。二人——ヤンとピートのものだ。  医師と治安官は顔を見合わせ、声の方向へ一目散に走り出した。  鉄の扉も内側へ倒れ込んでいる管制室の前で、治安官は立ち止まった。  空気は青く染まり、肉を灼く異臭が鼻をついた。煙はドアの内側から洩れていた。  誰かがいるのだ。  まさか、Dが——。 「おめえらはここにいろ」  それでも治安官としての責任はわきまえているのか、巨人はツルギ医師に言い残して、ひとりドアをくぐった。  時間を費やす必要はなかった。  何者かに破壊し尽くされた管制室の床の上に、黒焦げの死体がふたつ、折り重なっていた。  見るまでもない。ピートとヤンの末路だった。  レーザーより出力の低い光学兵器で黒焦げにされたのだ。  |熱線銃《ヒート・ガン》だろうか。  治安官は、ランチャーを左手に移し、右手で大型の炸裂銃を抜いた。  形状は太古の|回転式銃《リボルバー》に酷似しているが、こめている弾丸は三十六発。そのどれもが、小竜なら一発、中型火竜でも半ダースで仕留め得る炸裂弾であった。  室内でミサイルを射ちまくるわけにもいかない。  不意に、暗黒の片隅で金属音が響いた。  ふり向いた眼が半円形の塊を捉えた刹那、炸裂銃が吠えた。  重々しい銃声がツルギ医師を緊張させた。  ドアの向こうが、ぽっと赤く輝き、激しい絶叫が伝わってきた。  ローリイがツルギ医師の腕にすがって震えた。待っていろというのに、どうしても一緒にとやって来た娘だった。赤色光とツルギ医師の緊張とで異変を察したらしい。  待っていろとゆっくり唇を動かし、ツルギ医師はそっと腕を抜いた。  ローリイは逆らわなかった。  脅えや好奇心による行動の束縛がどんな結果をもたらすか、両親との放浪で知り抜いていた。  ツルギ医師は両肩にやさしく手を置き、足早に扉へ近づいた。  その足が急に止まった。  ドアの内側から、黒い影が奇妙な音とともに出現しつつあった。  ショット・ガンを構える。  最初に熱線砲と思われる|腕《アーム》状の突起が見えた。つづいて球状の胴だった。それを支える下半身は、戦車のものと等しい|無限軌道《キャタピラ》であった。 「伏せろ!」  叫んでローリイを突き飛ばした医師の身体の上を、オレンジ色の波が跳んだ。  凄まじい熱気に白衣の背が燃え上がり、毛髪が火を噴く。  悲鳴を上げて、医師はのたうちまわった。頭を抱え、背を地面に押しつけて火を消そうと計る。  その襟首を掴んで、ローリイは横へ跳んだ。  熱シャワーの二撃目は、間一髪で二人の横たわっていた地面を叩き、チタン構造材を白熱と変えた。  医師の背を見ようともせず、ローリイはショット・ガンを肩づけし、引き金を引いた。  火線がドーム状の胴を叩き、弾丸は美しい音をたてて四方へ跳ね返された。  ローリイは身を伏せた。  もはや、逃れる道はなかった。凄まじい灼熱の死を送り込むはずの|腕《アーム》は、しかし、胴体ごと反転した。  五メートルほど向こうの建物の陰に、黒衣の人影が忽然と立っていた。  機械の電子脳さえ恍惚となるその美しさ、凄愴さ。  熱線砲の照準がコンマ一秒遅れたのも、その|所為《せい》かもしれなかった。  迸る灼熱のシャワーを軽々と越えて、Dの長剣は頭上から、|機械《メカ》の丸い頭頂部を半月形に切り裂いていた。 [#改ページ] 第六章 死人の国    1  切断面から火花と電磁波を放って機械が停止するのと同時に、ローリイは医師の身体に覆いかぶさった。  まだくすぶっている火を押しつぶし、身体をこすりつける。  青い煙だけを噴き上げながら、ツルギ医師は呻いた。  頭上で気配が動いた。  ローリイは顔を上げて唇を動かした。  早く。早く看護婦さんのところへ。 「その前に見せたまえ」  Dもゆっくりと言って、ローリイをどかせ、医師の白衣を脱がせた。 「大丈夫です」  毛髪をかきむしりながら、ツルギ医師はほうほうの体で言った。 「大した火傷じゃない。ひとりで歩けます。ほおっておいて下さい」  Dは立ち上がった。無礼な言葉に、別段怒った様子もない。医師にはもう眼もくれず、ローリイを見つめた。  少女の眼に、凄まじい脅えと自己嫌悪の嵐が吹いていた。  わたし……|医師《せんせい》を助けもせずに、銃を……。 「よくやった」  Dは淡々と言った。  この言葉がどれほど奇蹟に近いか、ローリイには無論わからない。 「君が射たなければ、二人ともこの|機械《メカ》にやられていただろう。君は|医師《せんせい》の火傷を大したことがないと見抜いた」  でも……。 「射つとき、わざわざ|医師《せんせい》の前へ出たな。なかなか出来ないことだ」  少女の眼がかがやいた。  言われてはじめて、自分の行為に気がついたのである。 「そうとも」  と医師は、髪の毛の残骸を情けなさそうに手にとりながら言った。 「君が私にかまけていたら、二人ともあの世行きだった。君は命の恩人だ。さ、連れていってくれ。看護婦は磁気嵐以来、役に立たん。今度は私が診てもらう番だ」  ローリイはうなずいた。  自分が必要とされていることを、少女は知ったのであった。  気がつくと、Dの姿がなかった。数分で管制室のドアから現れる。 「どうしました? 治安官たちは?」  Dは無言で首を横に振った。 「一体、何です、こいつは?」  憤りのこもる医師の声に、Dは短く、 「船内の防衛機構だろう。これだけが動いていたとみえる。この船の乗員は、三年も前に死に絶えていた」 「どうしてわかるんです?」  Dはコートの内側から黄ばんだ|航空日誌《エアー・ログ》を取り出した。  最後のページに眼を走らせた医師の顔に、形容し難い恐怖と悲惨な色が浮かんだ。それは長いこと消えなかった。  この略奪船もまた、目的なき旅路に飽いていたのだった。  いかに大空を自由に飛翔できるとはいえ、獲物となるべき浮遊市街や貨物帆船はさほど多くない。  ことに、略奪船の横行が頂点に達する頃には、どれもが強力な火器を備え、あるいは三次元レーダーとパワー・アップしたエンジンを仕込んで、戦いと逃走に活路を求めた。  略奪船の目的たる獲物は、確実に少なくなっていった。  無気力と倦怠が船を支配しはじめ、やがて、乗員の多くが自ら生命を絶ち、残ったものも退屈しのぎに殺し合い、あるいは衰弱死した。そして、船自体は、ほぼ無限に活動をつづけるイオン・エンジンの赴くまま、おびただしい死体だけを積み荷に、果てしない恐怖の航海をつづけていたのであった。 「この日誌の主は?……」 「船室で額を射ち抜いていた」 「ですが……あのミサイルは一体、誰が……?」 「コンピューターにインプットされていたのだろう。自分たちが死んでも、略奪はつづけろ、と」  医師は首を振った。それからDを見上げて、 「あなたは平気なのですか?」  と訊いた。 「こんな修羅を目のあたりにして、何も感じない顔だ。どうすれば、その美しい顔を崩せるんです? どうすれば泣いてくれます? どうすれば笑ってくれる?」 「おれは多くを見過ぎた」  Dは淡々と言った。 「でも——」  言いかけて、医師の眼に不可思議な光が湧いた。 「ミサイルの件はわかりました。ですが、接舷してから通路を渡したのはどういうわけです? あれもコンピューターにインプットされていたのですか?」 「わからん」 「ですが……」 「行くぞ」  Dは背を向けた。  待って下さいと言いかけたとき、医師の足元から低い唸りが伝わってきた。船が動きはじめている。 「これは——」 「別の旅に出かけるのだ。新たな略奪の旅路にな」  Dの声は遠ざかっていった。  二人は後を追った。  何かしら、想像を絶する不気味さが船全体を捉えていた。  三人が通路を渡り切ったとき、略奪船は緩やかに街から遠ざかっていった。 「何処へ行くんでしょう?」  ツルギ医師が訊いた。  ローリイはDを見つめる。無心な瞳には、同じ疑問が浮かんでいる。  二人はもう気づいていた。略奪船を覆う暗い運命を。  何処かに何かが生き残っているのだ。  退屈し、飽いた挙げ句に、仲間同士で殺し合い、最後には闇雲な破壊と略奪をコンピューターに命じて消えた乗員の意志が。  船はまた旅に出る。  姿なき者に導かれ、目的もなく、ただ殺し略奪するおぞましい旅に。  遠ざかりゆく船影を、Dたちはいつまでも見送っていた。 「町長がいないな」  Dが言った。 「家でしょう。しかし、おかしいな。何事もなければ、こんな状況で自分だけ引っ込むタイプでもないのですが……」 「ローリイを病院へ戻したまえ。武器を忘れずに。君も行け」  医師は動揺した眼で周囲を見回した。  何事もなければ逃げ出さぬ男が尻尾を巻いた理由はひとつ——何かが起こったのだ。  何事かと訝しがるローリイの手を引き、ツルギ医師は病院の方へと歩み去った。  Dはまっすぐ町長宅へと向かった。  娘が姿を見せ、父は管制室だと伝えた。ねっとりと自分を見つめる粘っこい視線に一瞥も与えず、Dは身を翻した。  穏やかな午後を迎えようとする街に、異妖な気配が漂いつつあった。  Dだけが理解した。略奪船と等しい気配だと。  管制室のドアをくぐった。  視線を黒い影が塞ぐ。  凄まじい勢いで飛来した人体を、Dは左手一本で受け止めた。  管制官のひとりだった。上顎から下がきれいに喪失し、血の染みがエプロン状に胸前を覆っている。  人知を越えた暴虐に翻弄された結果だった。白眼を剥いている。恐怖と急激なショックのため、心臓麻痺を起こしたのだ。  死者をそっと地面に横たえ、Dは前方の下手人に眼を据えた。  町長が武器を手にして立ちすくむすぐ前に、別の作業員が立っていた。  その足元に数個の死体が転がっている。どれもが眼を剥き、皮膚は蝋のように白い。首筋の傷は見るまでもなかった。  作業員がこちらをふり向いた。  四十過ぎの男であった。町長の|名簿《リスト》には、ゲルツ・ダイアソンとあった。 「気をつけろ、D! こいつは吸血鬼だ!」  町長が叫んだ。  作業員が口を開いた。二本の牙が生々しい。  手にした血まみれの下顎を投げ捨て、ゆっくりとDに歩み寄る。  敵がわかるのだ。  足が止まった。  敵がわかれば実力もわかる。残忍な顔に、ありありと恐怖が滲んだ。 「こいつは、いつおかしくなった?」  Dが訊いた。恐るべき敵を前にしているとは到底信じ難い、|静謐《せいひつ》な声であった。 「さっき戻って来てからだ」  と町長は答えた。こちらも落ち着いている。Dが来たためばかりではあるまい。 「三時間ほど、家へ仮眠にやらせた。管制室内へ戻ってくるや、手近のひとりに襲いかかったらしい。二人やられたところで、作業員がわしを呼びに来たのだ」 「この街は何処へ行く?」  別のことをDは訊いた。  ぐうと敵が吠えた。風を巻いてDを襲う。  無謀な試みであった。  すれ違ったDの影は、いつの間にか長剣を手にしていた。それが深々と胸に突き刺さり、妖鬼が倒れたとき、町長の肩はようやく落ちた。 「これが、ナイトの実験の結果か?」  Dは静かに言った。 「おまえの手に入れたかったものはこれか? これが理想の平和か?」 「やめろ!」  と町長は叫んだ。 「ナイトの実験は成功していたのだ。あの家でな。わしにはわかっていた。奴の造り出したものは完璧だった。だからこそ、私は奴の方程式を欲したのだ。わしのは不完全だったが故に」 「おまえは、この結果[#「結果」に傍点]を生かしたまま、どこかへ隠した。ナイトが成功し、おまえが失敗した実験の結果をな」  恐ろしい沈黙がおりた。  沈黙をつくったのはD、破ったのもDだった。 「町中の人間を吸血鬼に変えて、どうするつもりだった? 永劫の旅人を作り出すつもりだったのか?」  町長の喉仏が大きく上下した。    2  病院へ辿り着く前に、異様な雰囲気が街を包んでいることにローリイは気がついた。  誰かが見ている。  閉ざされたドアの鍵穴から。降ろしたブラインドの隙間から、路地の出入口から。  ツルギ医師の手に縋ろうとして、ローリイは思い直した。  怪我をしているのはこの|男《ひと》なのだ。  男も女もない。耳がきこえまいと、口が不自由だろうと、強いものは弱いものを救わねばならない。  そして、強いことも弱いことも、ともに肉体条件とは無縁なのだった。  しかし、何事もなく、街路は二人を病院に導いた。  医師は看護婦の名を呼んだが、返事はない。 「帰ったらしいな」  と医師は舌打ちした。それから、崩れそうな椅子にへたり込み、素早くメモをとってローリイに渡した。 『病院にいたまえ。外に出てはいかん。ショット・ガンを忘れないこと』  ローリイも応じた。 『それより、|医師《せんせい》の手当てが先です。薬は何処に?』 『隣の薬剤室だ。君に塗ってもらわなくちゃならん』  ローリイはうなずいて立ち上がった。  生命の躍動が身体に漲っていた。成し遂げることの歓喜であった。  ショット・ガンを立てかけ、素早く診察室を出た。  狭苦しく思える病院でも、薬剤室だけは広い。病人にとっても街そのものにとっても、これだけが生命を握る鍵になるからだ。  薬品名はわかっている。これでも化学者の娘だ。  薬は用途別に分類されていた。目指す瓶は人造皮膚のスペアと並び、一番奥の棚——酸の下の段に積まれていた。  ふた瓶と皮膚の包みをひと山抱え、ローリイはふり向いた。  その前に、白い女が立っていた。看護婦だった。  眼が異様に赤い。怒っているように見えた。 『ごめんなさい』  とローリイはゆっくり言った。看護婦なら、解読に慣れているはずだ。  女の唇がゆっくりと曲がった。笑いの形に。  端から牙がのぞいた。  ローリイは立ちすくんだ。  看護婦の太い指が、か細い両肩を掴んだ。地獄の風を吹き出す唇が、ゆっくりと喉へ迫る。  助けて  とローリイは叫んだ。  声は出なかった。出るはずがない。身をもがいたが、吸血鬼の腕はびくともしなかった。  助けて  ローリイはあきらめずに叫んだ。  助けて 助けて 助けて  誰にもきこえぬ叫びだ。無益で意味のない絶望の声だ。  ローリイははじめて、自分が真に疎外されていることを知った。  救いを求めても、誰ひとりやって来ない世界。そのたったひとりの住人が彼女だった。  Dと見た暁の意味など、どこかに吹き飛んでいた。  未知の恐怖だけが少女の|精神《こころ》を占めていた。  看護婦の唇が首筋に吸いついたとき、ローリイは左手を伸ばして棚の上の瓶を掴んだ。  思いきり叩きつけられた瓶は女の顔面で砕け、忌わしい悪鬼に変じた顔を白煙で包んだ。  看護婦はのけぞった。酸が眼に入ったのだ。  突き飛ばしてローリイは走った。  その足首を氷のような手が掴んだ。冷気が全身に回り、ローリイは硬直した。  ぐい、と引かれた。倒れた悪鬼の手元へと。  もう一度。  身体が床をすべった。背中に重いものが乗った。  ローリイは悲鳴をあげた。  誰も来なかった。  ドアは閉じられていた。ガラス瓶が割れたくらいでは、診察室に届くまい。  絶望がローリイを捉えた。  背に乗った力が不意に消滅した。  ドアの中心から黒いものが滲み出しつつあった。  みるみる人間の形を整えるそれを、ローリイは涙に濡れた眼で見上げた。 “達者かい?”  頭の中で陽気な声が言った。今日はいやに伝法であった。 “わかるのね、あなたはわかるのね。助けて、お願いよ?” “まかしときな”  声はあっさり請け負った。  看護婦は身を起こしていた。新たな敵へ悪鬼の闘志を燃やしている。胸前で構えた両手は鉤爪の形をしていた。  どっと跳びかかる身体を、しかし、黒い影はあっさりと貫通してしまった。いや、女が通り抜けたと言うべきか。  その白い胸に、黒い半円が突き刺さっていた。  看護婦はどっと倒れた。  半円はみるみる消えていった。どのような化学物質でできているのか、ローリイには想像もつかなかった。 “てなもんだ。化け物の一匹や二匹、おれの前に出ればこの通りさ。おまえ、この力も一緒に身につけたくはねえか?” “つけたいわ”  心からローリイは願った。  言葉がなくとも会話し得る精神感応力——テレパシー。吸血貴族の|下僕《しもべ》すら一撃のもとに滅ぼしてしまう円盤剣。  ローリイにはなくてはならぬものであった。 “なら、話は早い。おれの願いをひとつきいてくれればいいんだ” “言って下さい。何でも従います”  ローリイの熱い震え声に、男の冷たい笑い声が重なった。 “実はな……”  街には特別な“死”が跳梁していた。  今もそいつは、一軒の家を訪問したばかりだった。  時間にして数秒そいつと対面しただけで、五人の家族はばたばたと倒れた。  血を吸えないことがそいつは不満だった。仲間[#「仲間」に傍点]の血は吸わぬ|運命《さだめ》だった。  そいつは一種の病原菌の役目を果たしていると言えた。いわば吸血菌とでも言うべきものがその全身から噴出し、人々の皮膚表面から筋肉細胞へ、やがては骨髄に達するのであった。  そして、別のもの[#「別のもの」に傍点]が生まれる。  骨髄は|凶々《まがまが》しい夜のエネルギーを生産し、筋肉は十倍近くパワー・アップする。皮膚の細胞は、いかなる損傷を受けても数秒で再生し得るのだ。  すべての点で人間を凌ぎ、すべての点で人間を脅えさせる。  それが血を欲するが故に……  そいつが立ち去り、五分としないうちに家族たちは眼を覚ました。  飢えを感じていた。  もうひとつ、強烈な欲求があった。  仲間を増やさねば。  彼らは互いに争わぬようつくられていた。  仲間を——  仲間を——  そして家族は、それぞれがその役目を果たすべく、我先にと住まいを後にしたのであった。  病院へローリイを求めて訪れたDは、青ざめたツルギ医師から、ローリイが吸血鬼と化した看護婦に襲われた一件をきかされた。  それに対する関心は極めて薄いようであった。 「無事だったか?」 「何とか」  これで終わりだった。  細い手にメモと電磁ペンを握り、ローリイは次の単語をつづった。 『何のご用』  Dの美しい唇が動いた。 「もとの家へ行って欲しいのだ」 『どうして!?』 「君のご両親は、ある化学式と数学上の方程式とをあの家のどこかに隠して逃亡した。それをきちんと処分しない限り、またも争いが起こるだろうし、呪われた結果になるのは目に見えている」 『でも、私は何も』 「ご両親があの家で、特によく君を連れていった場所はなかったか?」 『——あるわ』 「それがききたい、来てもらおう」 『いいわ』  ペンを置いて、ローリイは立ち上がった。 『この街——何処へ行くのかしら』  歩きながら、ローリイはDに訊いた。唇の動きだけで。  答えはない。  どうでもいいということなのだろう。  急にDが言った。 「コンピューターに別の行く先がインプットされているそうだ。そこへ向かっている」 『何処へよ』 「このコースなら、貴族の遺跡と墓のあるところだ」 『何故そんな場所へ』 「それはインプットした奴に訊くしかない。わかる気もするが」 『どういうことですの』  今度こそDは答えなかった。二人はナイトの家へ入った。 「さ、その場所へ案内してもらおう」  Dは静かに言った。ローリイはうなずいた。  先に立って入った所は、やはり実験室だった。調べ尽くした場所である。Dと黒い影と…… 『父はいつも、そのデスクの上を指ではじいていました。何か隠していたのかもしれません』  Dはマホガニー製の超高圧机に手を伸ばした。 「どの辺を叩いた?」  ローリイは一部分を指さした。  何の変哲もない机の表面であったが、よく見ると、そこだけが他の部分に比して色褪せているようだ。  その表面を、Dは撫でた。 「どうだ?」  と訊く。  その声は無論きこえないが、ローリイは目を見張った。まぎれもない、左手のひらに妖々と人間の顔らしきものが浮かび上がったではないか。  その唇が動くのを、ローリイは無言で見つめた。 「ふむ。表面の光沢を出すのに、発輝剤を塗りつけてあるわ。しかし、今、指摘した部分だけは、妙に薄い。厚みがではなく、成分の問題じゃが」  そこだけ薄い塗料を塗ったということだろう。 「同じ成分か?」 「いや」 「では——どきなさい」  言われてローリイは下がった。この若者に対してしなければならない[#「しなければならない」に傍点]ことがあるのだった。  Dの長剣が閃いた。  一陣の光を誰がその眼に留めたか。机のその部分はきれいに切りとられ、Dの左手の上に落ちていた。 「分析しろ」  とDが命じた。 「くそ、人使いの荒い雇い主じゃな」  大口が不服をもらした。  Dは手のひらにその薄板を押さえつけた。  一秒……二秒……三秒…… 「よかろう」  と押しつぶされたような声が、板と手のひらの間から洩れた。  Dは手を放した。  手のひらの顔は唇だけになっていた。そこから赤い舌が出ている。  どうやら、舐めて分析していたらしく、その証拠に、板の表面は濡れているではないか。 「成分の原子配列が、ひとつの文字と式を構成しておる。うまい隠し場所だな。成分のどれひとつが濃くても薄くても、文字は消滅する」 「確かにうまい。それで——」  ふり向いたDの胸へ、黒い服を着た小さな白い手が|楔《くさび》を打ち込んだ。  声もなくDはよろめき、どっとばかりに床へ倒れ伏した。  まさか、まさか、ローリイが背後から杭をふるうなどとは考えもしなかったであろう。  事実、ローリイ[#「ローリイ」に傍点]は杭を打ち込みなどしなかったのである。  Dの身体がピクリとも動かなくなったのを知るや、愛くるしい顔が突如崩れ、なんとも言えない下品な笑いが浮かんだ。  口をついて出る声は男のものであった。 「やれやれ、邪魔者は消せ、か。まさか一番気を許した娘におれが取り憑いているとは思わなかったろうよ。悪いが勘弁せえや。すべてこの世はビジネスでな」  もう一度ニンマリ笑ったその顔は、ジョン・M・ブラッサリー・プルート八世に間違いなかった。  街は進みつづけていた。  Dは心臓に杭を打ち込まれて倒れたまま、町長はやってきたローリイ[#「ローリイ」に傍点]といつになく熱心に話し合い、プルート八世は街の何処かで呼吸ひとつせず、心臓だけを働かせていた。ツルギ医師は何も知らずに、しかし漠然たる恐怖に包まれ、メスやショット・ガンの手入れに余念がない。  吸血鬼病を撒き散らすものは、今もひそやかに小さな家を訪問し、倒れた人々は日没が来るのを、今や遅しと待ち構えている。  そして、航路管制室の三次元立体レーダーに見入るものは、三十キロほど前方の台地に、巨大な廃墟のつらなりを発見し、その台地の高さが街の高度と二十センチの誤差もないことにひどく驚いた。 「さて、いよいよ最終価格だ。いくらで引き取るね、社長?」  ローリイは可憐な唇を嘲笑の形に歪めて訊いた。  声はもちろん、プルート八世のダミ声だ。 「貴族になるための方程式と化学式だ。高く買ってくれるだろうな?」 「よかろう。五千万ダラス」 「冗談じゃねえよ。子供の月謝じゃあるめえし。いいかい、これを応用すりゃ、今までの活動範囲はそのまま、月に一、二度吸血すればすむだけの人間がつくられるんだ。もちろん、昼の光の中も歩ける。水溜りに落っこちても溺れやしねえ。飯もいらねえ。ライフルだろうがレーザーだろうが、どんなダメージを食っても死ななくなる。プラス、性質も前とは変わらねえ。——え、いいことずくめじゃねえか。これが五千万ダラスってこたねえだろ?」 「ならば五億ダラス」  町長はニヤリと笑って言った。  一挙に十倍だが、プルート八世の首は横にふられた。 「五千億ダラス——びた一文まからねえ。なにせ、おめえ、スーパーマンになる秘宝だぜ。おまけに邪魔な吸血鬼ハンターは、この娘の身体を借りて始末してやったんだ。それだけでもお釣りがこようってもんさ。なんなら、おまえさんが、女中に入ったおれの首を切り裂いたときのこと、みんなの前でバラしてやろうか。断っとくが、おれは腐りかけた死体にも入れる。声帯をいじって、“証言”させてもいいんだぜ」 「よかろう」  と少し考えて町長はうなずいた。 「すべてはこの街のためだ。五千億ダラス——おまえの言い値で支払う。ただし、おまけをつけてもらいたい」 「何だい、そりゃ?」 「おまえが斃した吸血鬼ハンターの代わりに、吸血鬼騒ぎの最後のひとりを片づけてもらおう——奴は、わしの失敗作でな」 「——!?」 「二百年前乗船した男から、わしは人間を吸血鬼と変えるべき方程式と、ある薬品の化学成分表とを授かった。だが、その完成は、わしの手にあまるものだったのだ。奴[#「奴」に傍点]の望みを叶えるためには、ナイト夫婦という天才が生まれるまで、二百年の歳月を待たねばならなかった。ところが、ぎりぎりのところでナイトは逃亡した。この街の住人だけにその成果を応用しろというわしの命令に反してな。奴は世界のために、それを使いたがった。愚か者め。真の平穏にひたれる人間たちは、ひと握りに限るのだ。下界の奴らに与えてみろ。すぐにも殺し合いがはじまるだろう。平和を生むはずのものが、死を招く羽目になる。  彼らとは別に、わしも独自に研究を行った。中に二人、成功に極めて近いモルモットがいたが、わしの力ではどうしても、体内に芽生える吸血鬼の残虐性を消すには至らなかった。そして、間が悪いことに二人は脱走した。ひとりは復讐にわしの娘を狙い、吸血鬼ハンターに斃された。もうひとり——これは未だに活動をつづけ、体内の吸血ビールスを行く先々で撒き散らしておる」 「そいつぁいいや」  とローリイことプルート八世は腹を抱えて笑った。 「あんたの望み通りの状況になりつつあるわけだ。それを何故殺してくれなどと言うんだね?」 「貴族の残虐さは、彼らをも狂わせる。奴ら[#「奴ら」に傍点]が我々の他に、仲間同士どれほど苛酷な争いをつづけてきたか、知らぬわけではあるまい。わしは貴族の生命が欲しい。しかし、それは同時に永遠の平和を意味するものでなくてはならんのだ」 「欲深な野郎だ」 「何とでも言うがいい。今の貴族化など、どう逆立ちしても十分とは言い難い。奴が街中の人間すべてを偽貴族と化してしまわぬうちに、速やかに処分せい。いやなら、すべての取引はご破算だ」 「わかったよ」  とローリイ=プルートはうなずいた。 「んな化け物、おれさまが一発で仕留めてやるさ。大船に乗った気でいな」  インターフォンが激しく鳴った。 「今度は何事だ!?」  喚くような町長の声に、 「街は台地へ接近しつつあります。すでに着陸態勢に入りました」 「ほう」  とプルート八世は眼を輝かせた。 「するってえと、コンピューターにインプットされた目的地てのはここだな。一体何のつもりか推理するのも面白いぜ」 「インプットした以上、そこへ到着すれば、奴の利益になることはわかりきっておる。今すぐに始末せい」 「承知した」  プルート八世はうなずいて立ち上がった。 「もう犠牲者が出てると言ったな。そいつは面白え。中に吸血鬼志願者がいてくれると助かるんだが……」  町長宅を出ると、言い知れぬ鬼気がプルート八世の身体を包んだ。夕闇が迫っている。  特に彼を意識しているわけではなく、空気それ自体に満ちているのである。かなり大量の発現点が、付近に蠢いているのだった。 「こりゃ驚いた。町長の野郎、呑気にかまえてやがったが、この分じゃ、街はもう半分がとこ、死人の天下だぜ」  つぶやいて、プルート八世はカモシカのような足で街路を歩きはじめた。  すぐに周囲で気配が動いた。 「来たか」  プルート八世はつぶやいて、ローリイ[#「ローリイ」に傍点]の足を止めた。  薄闇の中に、黒手袋の人影が立ち尽くしていた。  最も強い妖気の発現点は、その体躯であった。 「待ってたぜ」  とプルート八世は笑った。ローリイの声で。 「おめえがこの街を何処へどうして連れてく気なのか知らねえが、何もかもこれで終わりよ。さっさとおめえを片づけ、おれは街を降りる。貰うものを貰ってな。おめえを不死身にした方法のノウ・ハウは、また別のところで高く売りつけてやるさ。仲間が増えるところを見られねえのは哀れだが、あきらめるこった」  すでに機能を失ったはずのローリイの声帯をどのように操るのか、立て板に水でまくしたてるや、プルート八世は、眼前の敵めがけて大きく右手を振った。  黒い光が心臓を縫ったと見た刹那、敵は音もなく、プルート八世の頭上へ舞っていた。  想像を絶するスピードで蹴りが飛ぶ。  少女の身体とも思えぬ敏捷さでかわし、プルート八世は下方からすくい上げるように円形の武器を投げた。  それは狙い違わず、吸血鬼の股間から胸部まで一気に切り裂き、路上へ鮮血の雨を降らせた。 「やったぜ!」  美少女の顔でプルート八世は叫んだ。  その顔がぴしりと凍りついたのは、次の刹那であった。どっと倒れた妖鬼の背後の闇が、ひときわ長身の、これは世にも美しい若者を送り出したのである。 「お、おめえ……」  とプルート八世は呻いた。 「まさか……ダンピールだって……杭を心臓に打ち込まれりゃあ……」 「残念だった」  静かな声が、プルート八世の心臓をえぐり取ろうとした。 「お前が町長と何を話したのか、それを言え」  声もなくプルート八世は後方へ下がった。  駆け出すチャンスを探りながら、それが不可能であると自ら悟っていた。 「おまえ——あの娘の両親から何かを聞いたな」  静かな声音に、プルート八世は震えることもできなかった。 「恐らくは、あの夫婦が完成した人間貴族化の方程式と化学成分の在りかか。彼らは何故、そんなものをこの街に遺して逃げたのか——答えろ」 「……死ぬのを覚悟していたからよ」  Dとやり合う腹をくくったのか、プルート八世の声は意外と落ち着いていた。 「考えてもみろ。こんないたれりつくせりの街でぬくぬくと生きてきた人間だ。辺境の大地で何ができる。機械があったって、精神がついてけやしねえやな。夫婦にもそれはわかっていた。だが、二人が成し遂げた事柄は、そのまま埋もれさすには、あまりにもでかすぎた。なんとか後の世に役立てたいという想いもあったろうが、半分は単純な名誉欲だったに違いねえ。そう考えたとき、最も安全な秘密の隠し場所は、この街しか思いつかなかったのよ。哀れな話じゃねえか、え? その挙げ句が、辺境の片隅で誰に知られることもなく非業の最期ときたもんだ……。おれは、おめえ、それを使って少し、おこぼれを頂戴しようと……」 「——二人を殺したか?」 「なんだって……」  プルート八世の眉が吊り上がった。怒りに燃えているように見えた。Dは淡々とつづけた。 「トレーラーの原子炉の異常に、化学者二人が気づかなかったとも思えん。彼らは外へ出て食い殺された。いくら世にうとい化学者夫婦でも、辺境の深夜、外へ出る危険を知らぬはずがない。お前が安全を保証すれば別だが」 「おい、ちょっと待て」  プルート八世が右手を突き出して抗議を放った。 「口はばったいが、おれはあの娘を助けたんだぜ」 「おれが居合わせたからだ。|分子浸透《モレ・インター》は放射能も素通りさせる。竜の餌にするのが忍びず車内で楽に殺そうとしたのが間違いのもとだったな」 「あきれた野郎だ。猜疑心の塊だな」  プルート八世の美少女の顔に笑いが走った。はじめて見る邪悪な笑いだった。 「だがな——少しは当たりかな。おめえと出会ったとき、半分はまずいな[#「まずいな」に傍点]って気がしたんだが、どうやら適中だったらしいぜ」 「町長の目的はなんだ?」  プルートの叙述の恐るべき内容など聞きもしなかったというふうにDは言った。 「町民全員の貴族化——吸血鬼化か?」  一瞬、夕闇を白く白く切り裂きながら、Dの長剣が舞った。  音もなく倒れ伏したのは、背後に迫ったふたつの影であった。  Dの鬼気がわずかにゆるんだその一瞬、プルート八世の姿は闇に呑まれた。 「手遅れだよ、D。手遅れさ。こいつは町長がつくった失敗例が伝染した連中だ。後は仲間が増える一方さ。街はもうお終いだよ。いいや、これが町長の望んだ結果なのさ。人間が完璧な貴族になろうなんざ、土台、無理な話なのよ」  その通りかもしれなかった。  二百年前の謎の訪問者、町長、ナイト夫婦——誰もが夢を見ていたのかもしれなかった。  街は夢を乗せ、夢でできているのだった。  そして、夢は醒めようとしていた。  最悪の結果で。 「あんたとはやりたくなかったが、しゃあねえ、いくぜ。縁があったら地獄で会おう」  迫りくる凶気が闇に溶けていると知った刹那、Dは両眼を閉じていた。  長剣が動いた。  |円《まる》い刃物はいともたやすく切断され、空中へ散った。  Dは突進した。周囲で風が唸った。  ローリイ=プルート八世には成す|術《すべ》がなかった。  Dの拳は可憐な鳩尾に吸い込まれ、あっという間に通り抜けた[#「通り抜けた」に傍点]。  |分子浸透《モレ・インター》の超人技である。ローリイの身体は滲む影と化していた。  Dは反転した。  影は風になびく一塊の草のように路上を滑空し、音もなく土に呑まれて消えた。  その黒い上端が消滅するのも見ず、Dは茫漠たる中空と大地を遠望した。  謎の手が命じた航路は呪われた都市へと導く道程か、街は見渡す限りの廃墟上空へさしかかりつつあった。  都市の底部から放射される照明に、巨大な石柱が、|天蓋《ドーム》が、街路が悄然と浮かび上がる。そのどれもが砕け、ひび割れ、時と風の前に無惨な瓦礫と化していることは言うまでもないが、何故か、それ以上に凄惨な雰囲気がこの土地にはあった。  辺境にあって貴族の廃墟は珍しい見ものではない。  にもかかわらず、この土地は、それに伴う感慨と寂しさを誰の胸にも湧き起こさないのだ。  包含するものはただひとつ、不気味な|凶々《まがまが》しさであった。  Dのみがその具体例を認めた。  蜿々と居並ぶ石柱の影の下、街の訪れに気づいて、あるいは激怒し、あるいは歓喜するかのように蠢く影を。  人影を。 「ようやく……着いたか……」  吐息を振り絞るような声が、Dを振り向かせた。  数メートル先の路上に黒血にまみれて横たわる影であった。  プルート八世の円盤に両断された妖人と知っても、Dの表情は動かない。 「街を導いたのはお前か?」  質問も生者に対するもののようであった。 「そうだ……この街の……連中は……仲間になる……資格が……ある……」  仲間とは、彼の仲間のことだろうか。 「ここは……失敗作の集まる……ところだ……生もなく死も知らず……永劫の飢えと……夢もない未来に呪われた存在たる……この街の住人に……これ以上ふさわ……しいところは……あるま……い」 「六時間か……」  とDはつぶやいた。夜明けまでの時間であった。  わずかそれだけの、途方もなく長い攻防が開始されようとしていた。 「……失敗作の数は……五千……人以上だ……生が勝つか死が凱歌を歌うか……いや……そのどちらでもあるまい……それこそが、この街の人間には……ふさわしい|運命《さだめ》だ……」  最後の言葉に断末魔の苦痛と笑いを混ぜて放つと、影は再び土に斃れ、もはや動かなかった。  遠くで破壊音が木霊した。  吸血鬼と化した町民が別の家を襲っているのだろう。  治安局の出動も、こうなった以上、事態を収拾させる力にはなるまい。いや、彼ら自身がすでに……。  ちらりと道の奥——病院の方に眼をくれてから、Dは航路管制局めざして歩き出した。  すぐに到着した。  下方の存在に気づいたのか、ただならぬ緊張が管制室を満たしている。  十人ほどの作業員が武器の点検に余念がなかった。  Dの姿を見て、町長は敵意よりも安堵を示した。 「よく来てくれた、と言うべきだろうな」 「下をよく見るがいい」  とDは静かに言った。 「これが、お前の切り開いた道の果てだ。下では五千人の貴族になれなかったものどもが、五百人の生者を待ち受けている。この町の住人こそ仲間にふさわしい、と」 「彼らは失敗例だった」  町長は、疲れているように見えた。 「だが、わしらがなるはずだったのは、完璧な新人類だ。人間の|精神《こころ》とやさしさに、貴族の不死身をもち、俗世の汚れを知らず永遠の生を謳歌する存在だ。わしはしくじったが、ナイト夫婦は成功した。その矢先、奴らは街を脱け出しおったのだ」 「娘さんを襲った吸血鬼は、おまえのつくったものだな」 「そうだ。二人つくり、二人とも逃げた。——ひとりは娘を毒牙にかけ、今ひとりは病原菌を撒き散らしておる」 「街の半数はすでに吸血鬼と化した。依頼があれば処分しよう」  この状況にあって、ハンターはあくまでもハンターであった。 「すべては終わったか——」  町長は両の拳を額にあてた。それからDを見て、にやりと笑った。 「いいや、まだだ。この街とまともな住人がいる限り、わしの夢は終わらん」  Dの眼に冷光が湧いた。狂気の夢を見るものを狂人と呼ぶならば、町長はすでに狂っていたのだろう。  だしぬけに、大地が前方へ傾斜した。  固定していない機材が係員を薙ぎ倒し、町長の肩に激突した。  血は出ず、青い稲妻が走った。  彼はサイボーグであった。 「着地します! あと七秒……」  コントロール・パネルにしがみついた係員が絶叫した。  空の街はまみえるはずのない大地へ降下しつつあった。 「……六秒……」  廃墟の地下でおびただしい気配が蠢きはじめていた。  来たぞ 来たぞ 仲間が来たぞ  石の、木の、鉄の棺の蓋が押し開けられる軋みと腐臭。はみ出る青白い手と真紅の双眸。 「……四秒」  廃屋へ向かうローリイの背後から、ツルギ医師が駆け寄って来た。 「……三秒」  街は静かだった。はじめから人などいないかのように。 「……二秒」  ローリイの右手に円形の刃物が光った。役目を果たせば消滅する化学物質を固めたものであった。 「……ゼロ!」  人々が衝撃で跳ねとぶ前に、轟音が家々の窓ガラスを破った。  ローリイと医師は大地を転がった。  衝撃波が分厚い風となって街中を駆け抜け、家々を傾かせ、樹木をへし折った。  町民の半数は何らかの傷を負った。後の半数も負ったが平気だった。 「——エンジン部ノズル破損!」 「対流筒、亀裂発生!」  あちこちで声が入り乱れた。 「新航路入力と再浮上までにどれくらいかかる?」  町長の声が訊いた。 「最低四時間」 「二時間でやれ」 「了解!」  Dはドアへ走った。  鉄扉は衝撃で歪み、微動だにしない。Dは肩からぶつかった。  構造材の破片を撒き散らしつつ、扉が倒れ込んだとき、Dの姿はすでに闇の街路を走っていた。  足音もなく、無数の死が迫りつつあった。  痩せ細った手が、しかし、生木をも引き裂く力をこめて、底部昇降口のドアに伸びた。  拳を握って叩きつけるかすかな音が外気を揺すりはじめた。 「入ってきます!」  血まみれの管制官が叫んだ。 「安心しろ。ドアはデューム鋼だ。いくら貴族の力をもってしても破れはせん」  町長は肩の傷に補修材を塗りつけながら言った。 「二時間だけもちこたえるのだ。——外壁とバリヤーに電導帯を散布しろ。——電圧は十万|V《ボルト》」 「了解!」  答えに少し遅れて、青白い光が街じゅうを包んだ。  吸血鬼の最前列が火花と煙をあげてのけぞる。全員の体毛がそそけ立っていた。 「やったぜ!」  管制官のひとりが叫び、 「無理だ、電圧が高すぎる」  とひとりがつぶやいた。  影たちは次々に闇より湧いて出た。石柱の陰から、ドームの下から。土の底から。  焼け爛れた身体の上に、新しい身体が乗った。その身体も火を噴いていた。それは下方の肩に足をかけ、外壁に手をかけ、よじ昇りはじめた。 「上がってきます——焼け死んでるはずなのに!」  誰かの声に誰かが、 「……貴族は不死身なんだ」 「電圧を上げろ!」  と町長が命じた。 「骨の髄まで焼き尽くすのだ。治安局員とガードマンは外へ出て、侵入者を迎え討て。ひとりも入れてはならんぞ」  青い色が青味を失い、白色と化した。  外壁をよじ昇る影は粘りを失った塑像のごとく崩れていった。 「逃げるぞ、奴ら!——助かった!」  管制室のスクリーン上を|退《ひ》いていく人影に歓喜の声が上がった。 「油断するな。奴らにはまだ時間がある。必ずまた来るぞ! バリヤーも安心はできん。外で撃退しろ」  町長の顔を現在の安堵とともに未来の恐怖が横切った。  Dは街路の中央にいた。  バリヤーの光も消え、立ちこめる異臭を除けば、街は静寂を保っていた。  人々は新たな脅威に脅えつつ家の中に閉じこもっているか、他人の血を求めているのだろう。  その殺戮もすべて闇に同化して行われているらしい。  Dの前後に人影が浮かんだ。真紅の瞳が凶悪な飢えを湛えてすり寄ってくる。街の連中はほとんどが悪鬼と化したらしかった。  もはや守るべきものはなかった。ある二人を除いて。  Dの周囲を何かが飛燕のごとく過ぎた。  数本はDの左手で払い落とされ、残りはすべて、迫り来る影の胸に吸いこまれた。  苦鳴が闇を裂く。  杭打ち銃から発射された木製の楔であった。治安局員たちが二発目を放つ暇もないまま、家々の屋根から人影が躍りかかった。  Dの長剣が閃き、数個の影が胸を貫かれて倒れる。すべて町民であった。 「もう駄目だ。脱出の用意をしろ」  脅えきり、浮き足立つ治安局員たちに、Dは血刀をひっ下げて命じた。 「それはできん。外は奴らでいっぱいだ。何処へ行ってもやられちまう。夜明けを待つしかねえ」  ひとりが上ずった声で言った。絶望の色ばかりが深い。 「では、好きにしろ」  Dは無言で踵を返した。  街は静かに朽ちるであろう。二百年前から決まっていたように。  隔絶された平穏に明日はないのだった。  道を急ぐDの右横から、白い影が突進してきた。  Dの顔はそちらを見ず、右手だけが横に流れた。  胸から鮮血を噴いて倒れる顔に見覚えがあった。巨鳥から救った少女だった。  口元から伸びた乱杭歯がゆっくりと消えていった。  Dは無言で歩いた。  病院へ行くまで、数度襲われ、ことごとく一撃で斃した。  ひとり斃されると、二度と襲いかかるものはいなかった。Dの鬼気は死者をも脅えさせるのであった。  病院の前でDの足は停まった。  白い建物は破壊し尽くされていた。  この下に二人がいる限り、どのような奇蹟にも成す術はあるまいと思われた。  少しの間瓦礫を見つめ、Dはふり向いた。  闇が凝結したかのような影が立っていた。両腕にふたつの身体を抱えている。  ツルギ医師とローリイであった。 「二人は無事だよ、D」  とプルート八世は言った。 「だが、この状況じゃ、うまく脱け出せるとも思えねえ——勝負といこうや」  言葉と同時に、ふたつの身体は地に墜ちた。  瞬時にDは跳躍していた。  プルート八世の身体が黒い染みと化し、二枚の円盤がとんだ。  銀光一閃。円盤ははじけとんだ。  黒い染みは縮まり、歪み、プルート八世の姿に戻った。  その額から一条の黒い線が伝わっていった。 「ありがとうよ。おれが長いことはねえと気がついてくれたかい」  プルート八世の口から鮮血が溢れた。Dの与えた傷によるものではなかった。ツルギ医師を斃そうとした瞬間、街が着地した衝撃で、何処かに眠っていたプルートの本体は重傷を負っていたのである。 「ひとつ断っとくがよ……」  ゆっくりと地面へ膝をつきながら、プルート八世は呻いた。 「この娘の身体には、おれが無理矢理入ったんだ。テレパシーで動揺させはしたが——この娘は最後までいや[#「いや」に傍点]だと拒んでたんだぜ」 「わかっている」  Dはうなずいた。 「おまえに助けられた[#「助けられた」に傍点]ことも、最後まで感謝しつづけるだろう」  プルート八世の顔が死微笑を刻んだと、Dに読みとれたかどうか。  Dはかたわらで呻くふたつの身体に近づいた。脈はある。それどころか、出血部に応急手当てが施されていた。  プルート八世のやったものだろう。変わった男だった。  遠くで悲鳴が上がった。  住民がかつての住民に襲われているのだった。吸血鬼と化すことによって、ようやく目的を持ち得た隣人によって。  Dは医師の額に右手を置いた。  すぐに眼を開いた。ぼんやりと左右を見回す眼に意志の光が宿った。彼はDを見つめ、少ししてこう訊いた。 「助けてくれたんですか?」 「おれじゃない。その男だ」  倒れた身体へ哀しげな眼差しが下りた。 「よくわからないが……街はどうなのです?」 「この街はとうに死んでいた。いま、本物の死を迎えようとしている。だが、君たちは無事に連れ出す。安心するがいい」 「まいったな……」  とツルギ医師が言った。 「とても僕の手に負える相手じゃない。あのひとの気持ちがようやくわかりました」 「何のことだ?」  医師はある村の名前を言った。  Dの表情が動いた。夏のさなかにそよ風を感じたもののように。  数年前、その村の端にある農場の姉弟を守って、彼はある吸血鬼と凄絶な死闘を演じたのであった。 「あの二人は元気か?」  医師はうなずいた。 「とても。弟がまるで一人前の男のように姉さんを助けています。農場はもっと広がりました。僕もずっと手伝いたかったのですが、あの|娘《こ》には意中の|男《ひと》がいるようです」  医師はローリイを検査し、うなずいて立ち上がった。 「どこへ行く気だ?」 「あなたひとりじゃ、出口の開け方もわからないでしょう。僕にも手伝わせて下さい」 「君は怪我人だ」 「僕はあの|娘《ひと》のこころを盗むことができなかった。せめて、あの娘が喜ぶことをさせて下さい」  不思議な想いのこもる眼をDはじっと見つめた。 「君はその村に何年いた?」 「短かった。半年です」 「あの二人は|幸福《しあわせ》ものだ」 「ありがとう」  医師の眼はかがやいた。誇りの色に。 「バリヤーの電圧が急速に低下中!」  声に応じるかのように、遠ざかっていた影が押し寄せてきた。 「コンピューターへの航路入力はどうした?」  町長が叫んだ。 「完了しました」 「上昇しろ!」 「推力が不十分です」 「構わん! 無理は承知だ!」 「了解!」  外壁を越えて、青白い影が雪崩れ込んで来たとき、街は大地の呪縛を逃れた。  浮かびとぶ、それだけが目的であるかのように。  数名の影がそれでも壁の内側に降りた。  彼らが最後に見たものは、この世ならぬ鬼気を漂わせる美青年だった。  侵入者の心臓をことごとく貫き、Dはふり返った。  町長が立っていた。 「わしの旅はこれからだ」  と彼は言った。 「夜明けさえくれば、吸血鬼はまた滅びる。残った町民とわしらで、なんとか街は維持できるだろう」 「この街は死街だ」  Dは静かに言った。 「何のために、何処へ行く?」  町長は笑った。凄惨な笑いだった。  その背後から人影が躍り出た。  町長の指先がその心臓にめり込み、影は足元に倒れた。  ラウラだった。  遠くで風が鳴っていた。夜明けはまだ遠い。 「二十キロ先に平原がある。おまえたちは、そこで降りろ」  町長の声も暗く遠かった。  遠ざかりゆく街を、三人は無言で見送った。  何処へ行くのか。  あの方程式はプルート八世の身体からは発見できなかった。どこへ隠したものか。町長にそれが見つかるのか。  Dはサイボーグ馬の鼻面を撫でた。三頭いる。町長が残したものであった。 「この娘はどうします?」  そう言ってなお眠りつづけるローリイをふり返ったとき、医師は彼女が目覚めていることを知った。  その眼は平原の彼方——青い暁を見つめていた。  白い指が砂地の上を動いた。  二人はそれを読んだ。 “風の音も、鳥の声もきこえました”  と。  生と死を間近に見た娘の心情であったろうか。長い髪を朝風がなびかせ、ローリイの影をくっきりと地に灼きつけて去った。 「この先二キロほどで、街だ。二人して行くがいい」  そう言ってDは馬に跨った。 「あなたはどこへ?」  答えず、Dは馬を進めた。  青みを増す山の稜線を目差すかのように、騎馬の姿はみるみる遠くなっていった。    『D—死街譚』完 [#改ページ] あとがき  ひとつの作品を完成させるまでは、種々の出来事が作者の身辺に発生するものですが、今回も山ほどありました。  ホテルで執筆中に風邪をひくは、お腹をこわして吐くは、「ハンターD&D」というFCがあまり非常識なことばかりするので、喜んで縁を切るは(もう私と無関係です)、観もしないビデオ・テープがたまるは、「吸血鬼ハンター“D”」のビデオが完成するは——いや、よくも、この怒涛(というほどのモンかね)を乗り切れたものです。  それにしても、執筆が大幅に遅れ、数多くの方にご迷惑をかけました。伏してお詫び申し上げます。 一九八五年十二月二十五日。クリスマス。 「吸血鬼ハンター“D”」を観ながら    菊地秀行